「脊髄(せきずい)反射」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?何か熱さを感じたり、痛みを感じたりしたときに脳で考えてからそれを避けるのではなく、情報が脊髄から手足に直結して、反射的に危険を回避することを指します。これは人にとって無くてはならない機能で、それによって被害を最小化することができるのですが、言論界ではこの言葉が別の意味で使われます。それは、何かのニュースなどを聞いたときに、よく考えもしないで、すぐに批判するという意味で使われます。
問題は、熟考の末、心を痛めながら書いた文章であれ、脊髄反射的によく考えもせずに語った言葉であれ、発せられた言葉には大きな力があるということです。肯定的な言葉や励ましの言葉が、人を実際に死の病から回復させることもある一方、否定的な言葉や中傷の言葉により、人が命を絶ってしまうこともあります。
特に最近ではツイッターやラインなどのSNSを使った言葉による集団リンチなどが起こりやすくなっています。この問題について「SNS時代の魔女狩り」「村上春樹著『沈黙』を読んで」という2つのコラムを通して問題提起をしてきましたが、今回は一つの解決の道を皆様と共に模索していきたいと思います。
それはニコニコ動画で有名な株式会社ドワンゴの創業者、カワンゴこと川上量生氏の考え方です。私はテレビなどで大勢のコメンテーターがワイワイ言っているのを聞くよりも、1人か2人の方がラジオなどで自分の考えを語るのを聞くのが好きです。その方が圧倒的に話が深まり、中身のある議論を聞くことができるからです。これから取り上げる川上氏の言葉は、そのような対談形式の話の中で語られた言葉です。
対談の流れの中で、話は両親に虐待を受けたとされる船戸結愛(ゆあ)ちゃん(5)が3月に死亡した事件に及びました。この事件は、2018年の6月に報道されたものですので、記憶に新しい方も多くいると思います。以下に報道の内容を一部整理して転載します。
父親は、2月末ごろに結愛ちゃんを殴ってけがをさせたとして傷害容疑で逮捕、起訴されており、結愛ちゃんの体重は死亡時、同年代の平均の約20キロを下回る12・2キロだった。部屋からは、「もっとあしたはできるようにするからもうおねがいゆるして」などと結愛ちゃんが書いたノートが見つかっていた。毎朝4時ごろに起床し、平仮名の練習をさせられていたという。警視庁は6日、父親の無職船戸雄大容疑者(33)を、保護責任者遺棄致死の疑いで再逮捕し、母親の優里容疑者(25)も同容疑で新たに逮捕した。(朝日新聞デジタル6月6日付記事より)
この事件は、大変痛ましいものです。特に幼い結愛ちゃんが「もっとあしたはできるようにするからもうおねがいゆるして」とノートに書いていたことは、多くの人の心を揺さぶりました。私もとても胸が痛み、目頭が熱くなりました。そして人々の行き場のない怒りや悲しみは、結愛ちゃんをそのような状況に追いやった両親に向けられました。インターネット上には、両親に対する罵詈(ばり)雑言が満ちました。しかしこのことに対して、川上氏は普通の人とは違う卓越した想像力を働かせます。それは一字一句正確ではありませんが、このようなものでした。
結愛ちゃんはもう死んでしまったからどうすることもできないけれど、結愛ちゃんみたいな子はきっとたくさんいる。その子たちに何ができるのか?
結愛ちゃんは死んでしまったけれど、結愛ちゃんみたいな子が死なずに大人になるケースが多くあるはずなんです。そして、大人になった結愛ちゃんみたいな子は、育った環境のせいで性格が歪み、性格の悪い、いやなやつになっているかもしれない。
ひょっとすると、結愛ちゃんの親がそうだったかもしれない。そうすると、僕たちは結愛ちゃんを苦しめた人をたたいているつもりで、実は大人になった未来の結愛ちゃんをもっとたたいていることになってしまうのではないか。
こう考えると、僕たちは世の中のすべての「性格の悪いやつ」を、たたいてよいのかという問題になる。
実に聡明で、自己への内省と他者への優しさに満ちた言葉ではないでしょうか。「SNS時代の魔女狩り」「村上春樹著『沈黙』を読んで」という2つのコラムで、私は特別に悪くもない人たちが、集団の空気によってリンチされていくという問題を取り上げましたが、川上氏は明らかに悪いことをした人をも、私たちはたたくべきではないという指摘をされたのです。
今回のようなニュースを聞くとき、多くの人が脊髄反射的に、特定の個人を悪者と決めて(自己は正しいとし)たたくのが当然という風潮の中で(そのような主張には多くの賛同を表す「いいね」がつく)、彼は一歩も二歩も立ち止まって、ひどいことをしてしまう人の育った環境や立場にまで想いをはせているのです。そして「悪」の問題が個人に帰属されるものではなく、社会や育った環境に大きく左右された結果であるから、人が人を糾弾すべきではないと言っているのです。
もちろん彼は、裁判所が法で罪を裁くことを否定はしていませんが、それはあくまで社会秩序を保つためのルールであって、人が自己を正当化して相手が悪いからたたくということに鋭い問題意識を持ったのです。ましてそれがSNSなり、メディアなり、ある主の閉鎖的なコミュニティーの中で集団的に起こることに強い警鐘を鳴らしています。彼のこのような考え方は、聖書の教えに通底するものがあります。ローマ書の中で使徒パウロはこう言っています。
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。(ローマ14:4)
「あなたはいったいだれなので」「さばくのですか」。この言葉を正面から受け止めれば、人は決して人を裁いたりたたいたりすることができなくなるはずなのです。私たちはみな、大いなる方の摂理の中でこの地に生を受け、その加護と恵みの中で生かされている小さな存在です。そして正直に各人が自分の心の中を見てみれば、裁かれることはあっても、裁く立場ではないことは明らかなはずです。
川上氏は決して自己を正当化しません。彼が他の多くの人と同様に脊髄反射的な批判に加わらないのは、自分も少し間違って悪い環境の中で育っていたら、性格が歪み、結愛ちゃんの親と同様のことをする可能性がある、同じ人間だということに気付いているからです。
彼はインターネット上に吐露されている多くの人の本音に接するうちに、人の弱さや性(さが)に嫌というほど向き合ってきたことでしょう。にもかかわらず、それらすべてをのみ込んで、人と寄り添って生きることに決めたことに、彼の優しさを感じます。彼は現実の社会で、きちんとした生活を送っている人よりも、むしろネットの中にいるどうしようもなく性格が曲がってしまっている人たちに、むしろ親近感を覚えるとさえ言っています。
今回のようなトピックに関して、インターネットの黎明(れいめい)期から最前線を走ってきた川上氏の言葉は傾聴に値するものではないでしょうか。
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