現代の日本人の精神を考える上で、松本人志さんほど大きな影響を与えた人物はいないのではないだろうか。私自身、最近でこそテレビをまったく見なくなりましたが、学生時代から今に至るまで、彼の多くの番組を見てきました。そして、彼の「お笑い」や「言葉」の数々によって、自分の生き方や考え方が相対化されることを感じてきました。
私の両親は熱心なクリスチャンであり、父親は牧師というのが私の生まれ育った環境です。小さい頃から毎日家族で聖書を読み、祈り、家庭礼拝をささげるのが日課でした。家庭の中には酒やタバコや卑猥な話というのは一切なく、家族の皆が「まじめ」な性格という感じでした。かといって、暗い家庭というわけではなく、家族でよく旅行をしたり一緒にトランプゲームなどを楽しむような、和気あいあいとした家庭でした。
そのような状況の中で、テレビを通して見た彼の「お笑い」や「言葉」の数々に大きな影響を受けました。もちろん単純に腸(はらわた)がよじれるほど面白かったのですが、それと同時に彼が自分の性癖や性的な欲求に対して非常にストレートに、何の恥じらいもなく公の場で語っていることに衝撃を覚えました。そのような大人は、自分の両親はもとより、周りの教会のメンバーや学校の先生たちの中にも一人もいなかったからです。
しかし、後に大人になるにつれて、誰もが同じような欲求を内に秘めているのに、それを口に出さないだけであることに気付きました。彼がある意味において非常に魅力的であり、多くの人に影響を与えているのは、笑いのセンスももちろんそうなのですが、他の大人たちが偽善的に隠している自分の内側の恥や欲を、非常にストレートに語るからなのです。
しかし、彼が多くの人に支持されている理由はそれだけではありません。もう一つの大きな大きな要素があります。それは、相方の浜田雅功さんもそうなのですが、彼らが情に厚いということです。おそらくそれは、貧しい大阪の下町に育ったということとも無関係でないと思います。一見すると彼らの発言は時に暴力的であったり、いじめ的であったりして、口では「そんな奴、関係あらへん」とか「死ね」とか言うのですが、でも長年彼らを見ていると、心の中ではいろんな人のことを気に掛けていることが分かります。
それを最もよく表している彼の言葉を一つ紹介したいと思います。それは、かなり前のワイドナショーという日曜日の彼の番組の中での話でした。誰かが松本さんに「政治家にならないんですか」と質問したときに彼が答えた内容です。正確には覚えていないのですが、このようなことを言っていました。
「真面目な話をすると、政治家になるということは日本の国益を追求することなのだけど、日本の国益を追求することは、他の国や世界の不利益になることもある。だから僕は政治家にはならない」
この言葉を聞いたとき、私は「非常に核心をついた話だ」と感じました。近年米国のトランプ大統領が「アメリカファースト」という言葉を掲げて、大統領選を制しました。日本では小池百合子さんが「都民ファースト」という政党を立ち上げました。またつい先日、「日本維新の会」の沖縄支部のちらしが家にポスティングされていたのですが、それを見ると彼らの政策として「沖縄ファースト」と書かれていました。
これは言葉を変えれば「自分たち優先」の政策をとっていくということです。そしてその「自分たち側」にいる人々は、これらの政策を歓迎し、政治家たちが自分たちの利益のために何かをしてくれることを期待します。地方政党のように比較的に小さな政党が「〇〇ファースト」と言う分には、「地方自治、地方創世を頑張ってください」と応援されることもあると思います。しかし、米国のように富も力もある側が、「自分たち優先」の政策をとるということは、その外にいる人たちにとっては自分たちが「排除」されたと感じたり、相対的にさらに貧しくなったりすることを意味します。
「自国の国益追究」という言葉も、本質的には同様です。もちろんまずは各国が国益を追求して自立し、その上で国際協調や国際支援をすればよいというのも間違ってはいませんが、現実の経済というのはシビアなもので、誰かの利益は必ず誰かの借金や損失とリンクしています。それに、「〇〇ファースト」や「国益の追究」などは、わざわざスローガンにしなくても人々は勝手に「自分たち優先」に生きています。そしてその結果、弱者や弱国がますます苦しくなっていくというのが、現状でしょう。
ですから松本さんは、日本の国益を優先的に追及することを専門的に担わなければならない政治家になることに違和感を覚えて、先ほどのような発言をしたのです。つまり、彼は自分の身近な人や日本人のみならず、世界中の人のことを気に掛けているということです。そして、彼のこのような感性が、多くの人に支持されている理由なのです。
もちろん彼の内にも欠点はあるでしょう。キリスト教の道徳の基準から言えば、眉をしかめるような面もあるかもしれません。それに、キリスト教の博愛(「博(ひろ)く愛すること」)の精神や愛の教えは、彼の気まぐれな情や優しさよりも優れていると言えるかもしれません。しかし、もしも私たちの心が知らず知らずのうちに偽善や自分たち優先主義に傾いているとしたら、もしくは教理としては博愛を標榜していても、実際には他者に無関心であるとしたら、松本人志さんを通して気付かされることもあるのではないでしょうか。
◇