21世紀という時代を考える上で、私たちの生活や思考と切り離すことができないのがインターネットです。私が学生の頃は、電話線でモデムを介してインターネットにつながり、写真1枚表示されるのに数分かかるというような状況でした。そしてそれは、パソコンを使う一部の人のみのツールでした。
しかし、今では1歳半のうちの息子でさえ、タブレットを使って動画を見ています。私自身、インターネットを通じて実に多くの事を学ぶことができました。例えば、ある聖書箇所の解釈が分からないときは、他の牧師先生たちの書かれた解説などが参考になることも多いですし、英語や日本語の他の訳の聖書などを併記して見比べることもできます。また、ある言葉や概念、歴史や人物について知らない場合、ウィキペディアなどのインターネット上の百科事典で(うのみにはできませんが)一応の概要を知ることもでき、とても有用です。
しかし一方で、ツイッターなどのSNSや匿名の掲示板などでは、罵詈(ばり)雑言、差別、ヘイトスピーチ、特定の個人を「たたく」というようなことが横行しています。私が最初にこのようなコメントを見たのは、日本でも最大規模のポータルサイトのコメント欄だったと思いますが、その表現の露骨さに強い衝撃を受けたのを記憶しています。
もしかしたら、インターネット上のこのような事柄に皆様は無縁なのかもしれません。しかし、特定の個人を「たたく」というような風潮は、既存のマスメディアの中にもあります(表現は少しマイルドで、オブラートに包まれているかもしれませんが)。
そして実は、多くの人は積極的に誰かを批判することはしないまでも、無意識のうちにそのような風潮に無言で同調してしまっています。そのことにより、批判される側は非常に深く傷つき、少なくない人が命まで落としてしまいます。ですから、この風潮に警鐘を鳴らす意味で、今回から数回に分けて角度を変えていろいろと書かせていただければと思います。
まず初めは、苫米地英人氏がある対談の中でテーマとしていた『魔女に与える鉄槌』について紹介させていただきます。これを知ると、人が誰かをターゲットにして集団で「たたく」という行為は、何も21世紀のインターネットの普及によって始まったものではなくて、昔から人の本能の中にあるものだと分かります。また私たちは、キリスト教の負の歴史をも直視することになります。では、この本の概要の紹介から始めさせていただきます。
『魔女に与える鉄槌』(羅: Malleus Maleficarum)とは、ドミニコ会士で異端審問官であったハインリヒ・クラーマーによって15世紀に書かれた魔女に関する論文。本書の執筆目的は、魔女の妖術の存在を疑う人々への反駁と、妖術の犯人は男より女が多いことを示すこと、および魔女発見の手順とその証明の方法について記すことであった。
第一部 - 魔女の定義とその能力に関する問題
第二部 - 魔女による悪行の類例。また、魔女と産婆の関係について
第三部 - 魔女狩り人や魔女裁判の心得と手引き1490年、教会の異端審問部はクラーマーを弾劾したが、同書は魔女狩りのハンドブックとして読まれ続け、1487年から1520年までの間に13版を数えた。1574年から1669年までにさらに16版が印刷された。(魔女に与える鉄槌: フリー百科事典『ウィキペディア』より引用)
苫米地氏の解説によると、この本は当時、トンデモ本として発行されたものではなく、神学教授たちのお墨付きのもので、神学書のように精密に学術的に魔女の定義が書かれており、そして具体的な魔女裁判のやり方が真面目に書かれた本だということです。ドミニコ会とは、神学の研究に励み、トマス・アクィナスなどの学者を多く輩出した修道会です。異端審問の審問官に任命される者も多かったようで、この本はそのうちの一人であるハインリヒ・クラーマーによって書かれたものです。
またこの本は、グーテンベルクの活版印刷によって多くの判を重ね、3万部という当時としては驚異的な部数が刊行されました。実は、これは聖書をしのぐほどの部数であったということです。そして、ヨーロッパ全域でこの本が読まれ続け、結果として15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が魔女と断罪され、火あぶりなどで処刑されたということです。また、これほどの大きな出来事であったにもかかわらず、表の歴史にはまったく出てこず、グーテンベルクの活版印刷の発明が語られるときに、聖書の印刷が語られることはあっても、『魔女に与える鉄槌』について語られることはありません。
そして、この魔女裁判の恐ろしいところは、ある人が魔女だと疑いをかけられた場合、自分でその疑いを晴らすことが非常に難しかったということです。それはこういうことです。嫌疑をかけられた人は、熱い釘をさされたり、指を締め上げられたりなどの拷問にかけられ、自分が魔女だと自白すれば魔女と判定され、自白しなければ「これほどの拷問にかけられても耐えられるのは魔女に違いない」とさらに疑われ、より厳しい拷問にかけられたということです。場合によっては無罪になることもあったようですが、最終的に何万もの人が魔女と断定され、火あぶりなどにされました。
そして苫米地氏は、これが過去の負の歴史であるにとどまらず、現代においても同様のことが横行しているとして、『現代版 魔女の鉄槌』という本を書かれました。この本は、誰でも発信することのできるツイッターなどを通して、多くのうそが真実として、そして真実がうそとして語られる危険性について語っています。また、人々が情報源を確認することなく思考停止に陥り、誰かの言葉に無批判に同調し、言葉による集団リンチが行われることに警鐘を鳴らしています。
まさに21世紀の今日、中世の暗黒時代に起こった魔女狩りとまったく同じように、集団で特定の個人を「たたく」ということが多発しています。また逆に、自分がたたかれることを恐れて、自分らしく生きることができない人が多くいます。例えば、自分は勉強が好きだとしても、周りの友達があまり勉強をしない雰囲気の場合、「ガリ勉」と言われることを恐れて勉強をしなくなったり、会社で昇進すると部下からの風当たりや責任感が増すということで、昇進したがらない人も増えたりしているようです。
このような時代にあって、私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか。聖書は実にシンプルにこう語っています。
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦(ゆる)しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ6:36、37)
私たちが皆このキリストの言葉を守ることができるなら、上述のような問題は明日にでも解消するでしょう。しかし、本来は神の言葉を一番よく知っているはずの神学教授たちが人々を致命的にミスリードした歴史を見るときに、誰も自分だけは大丈夫だとは言えないでしょう。(ちなみに魔女狩りは、聖書的な根拠がなく、彼らが勝手に考え出したわけではなく、旧約聖書の出エジプト記22章18節の御言葉を解釈したものでした)
また、魔女狩りが起こったもう一つの理由として、「社会不安」ということが挙げられています。
現代では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは無知による社会不安から発生した集団ヒステリー現象であったと考えられている。(魔女狩り: フリー百科事典『ウィキペディア』より引用)
今後AIやロボット革命により、現在の私たちの仕事はほぼなくなるといわれています。また、貧富の格差は広がる一方であり、このままでは社会不安は確実に増していきます。ですから私たちは、過去の失敗の歴史に学び、同じような惨劇をこれ以上繰り返さないようにしなければなりません。
しかし残念ながら、今の時代、誰かを火あぶりにすることはないにしても、言葉により人を傷つけたり死に追いやるということは毎日のように繰り返されています。そこまでではなくても、批判されることを恐れて自由に自分らしく生きられないと感じている人も多くいます。
今後数回にわたって同様のテーマで書かせていただき、皆様と一緒に考えていければと思います。これらの問題は、遠い昔の異文化の人の間で起こったことではなく、私たち一人一人の心のうちにある問題です。少し暗いテーマではありますが、暗部を直視することにより、自分や大切な周りの人を言葉による暴力から守ることができます。最後には希望の持てる提言をしたいと思いますので、しばらくお付き合いをお願いします。
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