前回は『魔女に与える鉄槌』について紹介させていただき、集団が誰かの扇動により、特定の個人をたたくということの恐ろしさについて、歴史をさかのぼって一緒に確認しました。今回は同様のテーマについて、村上春樹著『沈黙』から書かせていただきたいと思います。この短い短編は、高校2、3年生向けの「集団読書テキスト・第2期B112」(全国学校図書館協議会)にも採用されたことがあるようで、高校の授業で読んだという方もいるかもしれません。
内容を紹介するために、「あらすじ」を書かせていただきますが、小説というのは「あらすじ」にした途端、とても無味乾燥なものになってしまいますし、以下内容を含みますので、可能な方は、本コラムを読む前にまず小説を読んでいただければと思います。
物語は「僕」と「大沢さん」という2人の社会人の何気ない会話から始まります。僕は何気なく大沢さんに向かって「けんかをして誰かを殴ったことはありますか」と尋ねます。それは大沢さんが、ボクシングを20年近くも続けているということを知り、意外に感じたからでした。それに対して大沢さんが、しばしの沈黙の後、学生時代の経験を独白していきます。
中学生の時、大沢さんにはどうしても好きになれない青木君という一人のクラスメートがいました。その青木君という生徒は勉強もよくでき、他の生徒にも先生にも人気のある生徒でした。しかし、大沢さんは彼の要領の良さと、本能的な計算高さのようなものに気付きます。そして「青木は相手が何を求めているのかを察知し、巧妙に自分の態度を変えるような人物だったのです」と彼を評しています。そして、青木君の方でも大沢さんのそのような気持ちを察していたようです。
そんなある日、大沢さんは英語のテストで、青木君以上の点を取り、クラスで一番になります。それに驚いた先生は、それまで一番を取り続けていた青木君をからかいます。自尊心を傷つけられた青木君は何日か後に、テストで大沢さんがカンニングをしたといううわさを広めます。
そのことに怒った大沢さんは青木君を人気のない所に連れて行って、そのことを問いただします。それに対して青木君は、「何かの間違いで一番を取ったからっていい気になるなよな」と言って、大沢さんを付き飛ばして向こうに行こうとしました。その時、大沢さんは反射的に青木君を殴ってしまいます。この頃、大沢さんはボクシングジムに通っていました。とは言っても、この時はまだ本格的なトレーニングはしておらず、縄跳びとかランニング程度しかしていませんでしたが、このことが後々問題となります。
その後、2人は一言も口を聞かなくなり、やがてクラスも変わり中学も卒業し、2人の人生はそれ以上交わらないかに見えました。しかし、中高一貫の学校だったため、2人は高校3年生の時に再び同じクラスになってしまいます。最初の学期は何事もなく過ぎましたが、夏休みにある事件が起こります。
目立たない一人のクラスメートが自殺をしてしまうのです。大沢さんはこのクラスメートとは接点がなく、ほとんど話をしたことのない人でした。そして彼がなぜ自殺したかは、誰にもよく分かりませんでした。遺書に「もう学校には行きたくない」とだけ書かれていましたが、細かい理由は何も書かれていませんでした。ただ、後になって、このクラスメートが誰かに殴られていたらしいことだけは分かりました。
この後しばらくして、青木君はこのクラスメートの死を利用して、巧妙に大沢さんに復讐(ふくしゅう)をします。青木君は、自分が中学時代に大沢さんに殴られたこと、その時大沢さんはボクシングジムに通っていたことを教師に話し、今回の件に関しても大沢さんが怪しいという雰囲気を教師に伝えました。彼は何一つうそはつきませんでした。大沢さんの言葉を借りると「彼は単純な事実の一つ一つに巧妙な色づけをしていって、最終的にそこに否定することのできない空気のようなものを形成していったんです」ということです。
結果、大沢さんは全クラスメートから疑われ、無視されてしまいます。そのせいで食欲をなくし、夜も寝られず、情緒不安定に陥っていきます。体育の時間などは、どのチームにも入れず、誰もペアを組んでくれませんでした。彼は黙って学校へ行き、一言も誰ともしゃべらず、黙って家に帰る日々を過ごしました。彼はもう少しで完全に押しつぶされてしまうところでした。
幸いなことに、大沢さんはあることをきっかけに自分を取り戻します。そして、彼は苦しい体験を回顧して、最後にその時の心情を吐露します。意外なことに、大沢さんが非難したのは青木君ではありませんでした。もちろん彼は、青木君のことを吐き気がするくらい嫌いだと言っていますが、大沢さんが心底怖いと感じたのは、当時のクラスメートのような人たちでした。彼の言葉をそのまま引用しています。
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当りの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です。そして僕が真夜中に夢をみるのもそういう連中の姿なんです。夢の中には沈黙しかないんです。そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。沈黙が冷たい水みたいになにもかもにどんどんしみこんでいくんです。
ここまで読まれて、自分に心当たりのある方は、ハッとされるかもしれません。自分が青木君と同じように、皆を扇動して誰かをいじめたことのある人は、反省するかもしれません。もしくはこの物語のクラスメートたちのように、誰かの言い分を無批判に受け入れて、そのまま信じ、集団で行動し、誰かを傷つけていたことに気付き、恥じ入る方もいると思います。
もしかしたら、それとはまったく別の感情を持つ方々もいるかもしれません。それは「大沢さん」に感情移入して、青木君を憎み、このクラスメートの人たちを軽蔑するという感情です。そしてそれは同時に、現実世界の中で、自分の周りにいる青木君のような人や、他人の意見に踊らされて集団で行動する人たちに対する軽蔑という感情になるでしょう。
しかしもしも作者が、上述のようなことだけを感じてほしいと思ってこの物語を書いたのだとしたら、冒頭に出てきた「僕」という人物は必要なかったでしょう。物語の9割は「大沢さん」の独白ですので、最初から大沢さんだけを主人公にして書き始めれば済むからです。しかし、この物語は「大沢さん」が「僕」に向けて独白したものとして書かれており、この話を聞いた「僕」の反応によって締めくくられるようになっています。
もしも皆様が「大沢さん」の同僚か友人であり、この話を聞かされていたとしたら何と答えるでしょうか。おそらく多くの人は「その青木って人、ホントに嫌なやつだね」とか、大沢さんのクラスメートを一緒に批判して、「分かるー、そういう人たち多いよねー」とか言いながら、大沢さんの話に同調するのではないでしょうか。しかし少し複雑ですが、もしも私たちがそう言ってしまうと、それは大沢さんが「本当に怖いと思う」と言った、「人の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中」と同じになってしまいます。
大沢さんの話を聞いた「僕」は、この感情を揺すぶられる話を聞いた後で、何も言いませんでした。この「沈黙」は相手を無視したのではなく、相手の話と感情とを、誰を非難するでもなく、そのまま受け止めたということです。この物語を読んだ他の読者の方たちの中には、大沢さんに問題があったのではないかという指摘をされている方もいました。鋭い指摘です。大沢さん自身もまた、自殺したクラスメートにとっては、「顔というものを持たない」冷たい水のような存在であったかもしれません。自殺した級友の苦しみを理解することも、言葉を交わすこともほとんどなかったからです。
青木君に対する大沢さんの最初の先入観も独善的であったかもしれません。また青木君も冷たい水のような人たちの中で、もがいていた一人だったのかもしれません。彼は「相手が何を求めているのかを察知し、巧妙に自分の態度を変えるような人物だった」とあるように、何とか顔のない人たちの中で自分の立場を確保しようとしていただけだったかもしれないのです。だからこそ「僕」は、そのすべてを受け止めて、誰をも非難することができなかったのです。
2人は「ビールでも飲みませんか」と言って、ビールを飲みに行くという描写でこの物語は終わります。そこには何の結論もありませんが、少なくとも誰かを批判して話を「終わり」にしてはいません。批判は「断絶」しか生まないからです。
おそらく私たちの問題は、声を上げるべきときに「沈黙」し、「沈黙」すべきときに声高に批判してしまうことなのでしょう。前々回書いた松本人志さん同様、村上春樹という作家について教会内で語られることは多くないと思います。それは彼の作品に出てくる露骨な性描写などが、一見して教会内の文化と相いれないからです。しかし一流の作家が描く人間の姿や、メッセージの中には、気付かされることが多くあります。現代の魔女狩りが、これ以上誰かを決定的に傷つけることがないように、一読されることをお勧めします。
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