私たちは、青山さんがエルサレムに行き、キリストの復活というキリスト教信仰の中心的な部分を100パーセント確信したこと、しかし「人の造られた目的が、神の栄光をあらわすためである」というキリスト教の教えに相いれないものを感じているということを確認してきました。そして、前回は、この「教理」の概要と、教理というもの自体の役割や限界について書かせていただきました。
今回は、私が一番伝えたかったこととして、なぜ多くの熱心なクリスチャンが受け入れているこの教理について青山さんが違和感を感じるのかについて書かせていただき、この感覚の乖離(かいり)を埋めることができればと思います。なぜこのことが大切かといえば、これは青山さんだけでなく、他の多くの日本人も同様のことを感じるであろうからです。青山さんは、この教理が欧米的なものであり、日本人として相いれないものを感じるとおっしゃっていました。なぜそう感じたのでしょうか。
■「父の心」と「兄弟の心」
私が最近強く感じていることがあります。それは聖書を教えるときに、「父の心」で教えるのか、「兄弟の心」で教えるのかということです。
例えば、既に良い職場に就職している兄が、まだ学生である弟に、「お前はお父さんを喜ばせるために、勉強を頑張り、いい仕事に就き、家計を助けなければいけないよ」と言う場面を想定してみてください。これを聞いた弟はどう思うでしょうか?
そうだ、お兄さんの言う通りだと素直に思う子もいるでしょうが、兄の言葉がプレッシャーとなり、勉強ができないとお父さんに拒絶されるという強迫観念を持ってしまう可能性もあります。
しかし父は、本当にそれを願っているでしょうか。実は父は、勉強ができてもできなくても、良い仕事に就けても就けなくても「お前たちの存在自体が私の喜びだよ」と思っているかもしれません。また子どもたちが、良い成績を修めたり、良い職場に就くことを喜ぶとしても、それは家計が助かるからではなく、子どもたちの将来の安泰や幸せを願うからでしょう。
■ 使徒パウロ
話を元に戻しますと、「人の造られた目的が、神の栄光をあらわすためである」という言葉は、子どもに対して、「あなたは我が家紋の栄誉のために頑張らなければいけません。そのためにあなたは生まれて来たのです」と言っているようなものです。人によっては「神様は皆からあがめられるために人を造ったのか」と思うかもしれませんし、現代風に言うと、「いいね」をたくさん集めたくて、神が人を造ったのかと考えるかもしれません。ではこの教理は、聖書のどの箇所を基に作られたのでしょうか?
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(1コリント6:20)
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10:31)
このコリント書は、使徒パウロによって書かれたのですが、パウロという人物は、かつて多くのキリスト教徒を迫害し、投獄し、死にまでも至らしめた人です(使徒22:4)。しかしあることをきっかけに、彼は青山さん同様にキリストの復活を確信し、神の愛と恵みを体験し、キリスト教を世界中に広めるのに最も大きな役割を担うようになります。
パウロは、自分の大きな過ちが赦(ゆる)されたこと、また神の大きな恵みとあわれみを受けたことを誰よりも自覚していたので、この神の愛に応えたいという気持ちが非常に強かったのです(c.f. ローマ1:14、9:2)。だからこそ彼は、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにするべきだという結論に至り、他の人にもそれを勧めたのです。
つまり彼は先輩のクリスチャン(兄)として、彼に続く信徒たち(弟)へ、神(父)に対する態度の在り方を示したのです。そしてこのようなことは、パウロ以降、今の時代に至るまで、先に信じたクリスチャンから新しく信じる人たちへ、牧師から信徒たちへと連綿と続いていくことになります。
通常、教会においては、神に熱心な人が献身し、神学校へ通い指導者となります。そして、そういう人は違和感なく、「人が造られた目的は神の栄光のためである」という教理に心から同意し、それを他の人々に伝えていきます。問題は、それを聞く人たちの中に、プレッシャーや脅迫概念、もしくは違和感を感じる人たちが出てくるということです。
■ 太陽と月
少し整理しなければなりませんが、まず言えることは、神は太陽のようにご自身の栄光ですべてを照らされる方であり、何か栄光が不足しているような方ではありません。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示録21:23)
月は自ら光を発することができず、太陽の光を反射することで輝きますが、太陽は他から温められる必要がなく、自ら熱と光を発して、それによって地のすべての生命を生かしています。同様に、神ご自身は最初から栄光に満ちた方であるので、ご自身の栄光の不足を補うために人を造られたのではありません。
ですから私たちが神の栄光を現すというのは、私たちが神の栄誉のために何かをして、神に栄光を与えるということではなく、逆に私たちが月のように神の栄光にあずからせていただくということです。このことを自覚していた、もう一人の有名な使徒であるペテロは、自分のことを「主の栄光にあずからせていただく者である」と紹介しています。
そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。(1ペテロ5:1)
■ おわりに
繰り返しになりますが、父の心と兄弟の心の間には大きなギャップがあります。では父の心は何かといえば、子どもたちが何を成したかではなく、その存在そのものを愛し喜ぶというものです。
ですから、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわすこと」という教理を伝えるときには、必ず先輩や兄の心ではなく、父の心を汲んでそれを伝えなければなりません。間違っても、兄弟の心を持って「自分も神様の栄光のために頑張っているんだから、お前たちも頑張らないと、父なる神様が悲しまれるぞ(もしくは拒絶されるぞ)」というふうに伝えてはいけないのです。しかし、熱心な方ほど、知らず知らずのうちに、このようなニュアンスで伝えてしまいがちです。
使徒パウロも、そのようなつもりでコリント書を書いたのではないのです。先ほどの箇所で彼は、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」と前置きし、ですから「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と言っています。
「代価を払って買い取られた」とは、言うまでもなく、神が人類を愛して、愛する御子を遣わしてくださったこと、キリストが私たちに対する愛のゆえに自身の命を犠牲にして、私たちを罪から贖(あがな)ってくださったことを意味します。そして、この神の愛を深く知った(体験した)者たちは、強いられてでも嫌々でもなく、自ら進んで神を愛し、人を愛したいと思うようになります。そして、そのことこそが、神の栄光にあずかることになるのです。
いつか青山さんがこの文章を読んでくれることを期待して、今回のシリーズを閉じたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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