2019年が明けて、あっという間に3月も過ぎようとしています。非常に遅いあいさつではありますが、本年もどうぞよろしくお願いします。
今年最初のコラムとして、昨年末の「M-1グランプリ」とろサーモン久保田氏の暴言問題を取り上げなければならないことはあまり気の進むことではないのですが、彼が激高した理由を誰も書いていないようなので、批判を覚悟で書かせていただきます。まずこの事件の概要ですが、知っている方も多いと思いますが、少しニュースを引用させていただきます。
「M-1」審査員批判が炎上し続けている。12月2日に行われた「M-1グランプリ2018」(テレビ朝日系)の決勝戦後に、芸人たちが開催した飲み会で撮られた動画を発端としたこの炎上騒動。動画では、とろサーモンの久保田かずのぶが上沼恵美子に対して「そろそろもう(審査員を)やめてください」「自分目線の、自分の感情だけで審査せんといてください」と批判し、動画を撮影しインスタライブで公開していたスーパーマラドーナの武智は「更年期障害かよ」「オバハン」と上沼への暴言を吐いていた。動画はネット上で素早く拡散。騒動が大きくなり、4日朝には、久保田と武智がそれぞれ Twitter で謝罪した。(引用元:wezzy)
この騒動に関して、一般の方々はもちろん、他の芸人の方々もテレビやラジオで、皆一様に批判的な姿勢を明らかにしました。確かに彼の言動は、批判されて当然といえます。彼はこのように言いました。
「酔ってるのを理由にして言いますけど、そろそろやめてください。自分目線の感情だけで審査しないでください。1点で自分の一生変わるんで。理解してください」
「たぶんお笑いマニアの人は分かってますわ。お前だよ、一番。分かるよな。一番右側のな。クソが!」
「クソみたいなやつが審査してさ。(中略)あんたがつけた点数と、こっちが思った点数が同じでありたい。これで格差生まれたら違うやん。それを『私が好き~』とか言い出したら、ちゃうやん」
彼が批判されて当然なのは、その言葉遣いです。彼はひどい暴言を、机を蹴るなどの暴力的な行為とともに大先輩に浴びせ、そしてそれを公に配信したのですから、それを不快に感じる人がいるのは当然です。
また彼の批判はお門違いでもあります。確かに審査員である上沼さんは、「好き」とか「嫌い」とかの言葉で審査して点数を付けたために、少なくない人が彼女の審査が公平を欠いた「えこひいき」的なものであると感じてしまう余地はありました。久保田氏たちが批判したのもそのためです。
しかし、上沼さんが「好き」とか「嫌い」と言ったのは、その漫才が彼女にとって「笑えた」「笑えなかった」という意味なのです。つまり彼女は自分の感じた通りに点数を付けたのであり、そのこと自体には何の問題もないのです。
では主観的な審査以外に、どのような審査の方法があるでしょうか。ジャパネット高田さんが紹介していたことですが、能の役者たちは3つの目を持つといわれています。それは、自分の目である「我見」、お客様の目である「離見」、そしてそれらをすべて上から俯瞰(ふかん)するような「離見の見」です。
例えば、同じく今回のM-1を審査した落語家立川志らく師匠は、「私ずっと見てて、一つも笑えなかったんですよ」と言いながら高得点を付けたり、「客の盛り上がりを評価して票を入れた」と言ったり、「あとは、うるさ型の人が・・・彼らに食いつくかどうか」などとコメントしたりしたのです。明らかに「我見」だけでなく、「離見」や「離見の見」を使って審査をしたのです。
では、どちらが正しいかといえば、そんな決まりはなかったのです。もっと平たくいえば、主観的に純粋に自分が「笑えた(好き)」かどうかで審査するのか、客の反応なども見ながら客観的に審査するのかという基準や規則自体がなく、それは審査員たちに任されていたのです。そういう意味で、久保田氏らの批判はお門違いであり、上沼さんにはまったく問題がなかったのです。
ここまでは、他の方々も書いているところなのですが、肝心の、なぜ久保田氏があれほど激高したのかという理由について誰も書いていないようなので、書かせていただきます。
ご存じない方もいると思うので、少しさかのぼって書かせていただきますが、そもそも彼は2018年のM-1の演者ではありません。なぜなら彼は、2017年のM-1で既に優勝しているからです。審査される側が審査員に対して不満を爆発させたと思った人もいると思いますが、彼の場合はそういうわけではないのです。本来であれば、彼は既に優勝していますので、今回のM-1に関しては、「すごろく」で最初に上がった人が次に上がる人たちの戦いを眺めるような余裕のある立場なのです。
普通の人であれば、次に誰が優勝しようと、審査に多少ムラがあろうと、自分のことではないので、大らかな気持ちで眺めていられるはずです。しかし彼は、冒頭のような怒りを爆発させました。彼が審査に対して並々ならぬ思いを持っていたのは、敗者復活戦の視聴者投票の行動を見ても明らかです。
彼は自身のツイッターで、敗者復活戦の視聴者投票について、人々にこのように語り掛けています。「お願いだから偏ったカッコいいとかかわいいの一票で入れないであげてください。(中略)投票は簡単あきらかに受けてたとそれよりは受けてないこれが基準ですアイドルやないねんから」と呼び掛けました。
一般の視聴者投票という形の場合、「面白いかどうか」というだけでなく、個人的なファンだから、カッコいいから、以前握手してもらったことがあるから、などいろいろな他の要素で投票することは十分に考えられます。普通の議員を選ぶ選挙でも、政策や人物で判断するよりも、外見や、クラスメートの親だから、同郷だから、などという理由で投票する人が一定数いるのと同様です。
しかし久保田氏は、このような状況に1人で釘を刺したのです。そして、冒頭の件に関して(お門違いではありましたが)、怒りを爆発させたのです。ではなぜ彼は、これほどまでに公正な審査を求めたのでしょうか?
それは明らかに彼が、一緒に戦ってきた仲間を思ってのことです。芸人さんたちの世界は、華やかな表舞台とは裏腹に過酷な世界です。いろいろな場所で不定期な舞台に立たなければならないため、当然のこと正規の仕事に就くことはできず、売れるまではアルバイトなどで生活をつながなければなりません。
そして、たとえ少し売れたとしても、ギャラは多くはなく、またいつ消えていくか分からないという世界です。そのような世界で必死に戦っている仲間たちを思っての言動が、彼の行き過ぎた激高の原因なのです。
もしも審査がフェアなものなら、勝てた者も、負けた者も納得することができます。負けた者も「確かにアイツの方が面白かった」と納得し、また明日から頑張ることができます。しかし、審査がフェアでなければ報われません。
「1点で自分の一生変わるんで。理解してください」という怒りの言葉は、久保田氏の人生が変わるということではなく、頑張っている仲間たちの人生を思っての懇願のような言葉なのです。
ですから、上沼さんはまったく問題なく、彼の発言はお門違いであり、暴言や暴力的な行為に不快な思いをされる方がいるのは当然ですが、それにしても、彼を一方的に悪者扱いするのではなく、「彼は言い過ぎで、大先輩に対して失礼極まりなく、大いに反省するべきだけど、仲間を思ってのことだったんだね」と、一定の理解をしてあげることはできないでしょうか。スーパーマラドーナの武智氏に関しては演者側であったので、控えるべきであったのでしょうが、久保田氏の主張につい追従してしまったということでしょう。
恐らくこの問題にそこまで関心のない人は、久保田氏が激高した理由や背景までは考えず、先輩に暴言を吐く「不愉快なやつだな」と思うだけでしょうから、事情を知るマスコミや同じ芸人の仲間の方々が、「あれは言い過ぎだったけれど、こういう事情があって、仲間を思って熱くなっちゃったみたいだから、きついお灸をすえた上で、堪忍してあげてね」などと言って多少は擁護するのかなと思いきや、そうはならなかったので、門外漢の自分が書かせていただいた次第です。
今まで「SNS時代の魔女狩り」「村上春樹著『沈黙』を読んで」「脊髄反射とニコニコ動画の川上量生氏の言葉」などのコラムを通して言ってきたことは、集団の空気によって特定の個人がリンチされていく問題です。川上氏は、明らかに悪いことをした人をも、私たちは集団でたたくべきではないという指摘までされました。まして、仲間を思っての言動を、単なる暴言を吐いた悪者として一方的に批判する社会にしてしまってよいのでしょうか。
◇