牧師という仕事柄だろうか、書店に行き「キリスト教」とか「聖書」という言葉を冠した書籍を目にすると、思わず足を止めてしまう。そしていつしか「この本は○○さんにいいな」とか、「これは自分の学びのために必須だ」と品定めする癖がついてしまった。だから毎年、キリスト教系書籍を数十冊買い込むことになる。いわゆる「積ん読」である。
そんな中で出くわした本書『聖書がわかれば世界が見える』は、まさにクリスチャンと、キリスト教に興味を持ちつつある未信者の両者にとって益となる良書である。
著者の池上彰氏が、有名なジャーナリストであり、最近では冠番組を持ったり、いろいろなバラエティー番組に出演したりすることで、その番組の質を高めることに貢献していることは、もちろんよく知っている。だがそれだけでなく、自分はクリスチャンではないと言いながらも、聖書を世界に通用する教養として一読することを勧めると語り切っているところに好感を抱いた。
私は「自分はクリスチャンである」と明言しながら、池上氏と同じベクトルで、聖書やキリスト教について語りたいと願う一人である。そういった意味でも、本書は単に「信者になるため」にとどまらない、幅広い複数の目的で読むに値する書である。
本書は9章構成になっている。第1章では、聖書という書物について、キリスト教的視点のみではなく、イスラム教やユダヤ教と対比しつつ、各々の視点から見た聖書の扱いを多角的に説明している。このあたりの目配せがいかにも「教養としての聖書理解」である。
そして2章から3章にかけて、聖書の中身を解説している。2章は旧約聖書、3章は新約聖書である。面白いエピソードや、私たちに身近な人名や団体名が聖書に由来していることが、よく示されている。この潔い「割り切り感」は、「世界一ゆるい聖書入門」シリーズにも通じるものがある。
4章から8章は、いわゆるキリスト教史である。その中で白眉なのが、5章「キリスト教の分裂―正教会の成立」。ここで今一番ホットな話題であるロシアとウクライナの歴史に触れていく。一般的にキリスト教史というと、カトリックからプロテスタントへという西方教会中心の歴史観が多い。それに対して池上氏は、東方教会の歴史をひもとき、現在の戦争につながっていることを提示している。
特に、ロシアのウラジミール・プーチン大統領の言動とそれに対するロシア正教の対応に、池上氏は大いに疑問を投げかけている。このあたりがいかにもジャーナリストとしての感じをぬぐい切れない。ニュートラルな歴史など存在しないが、どうもウクライナ寄りの立場が見え隠れする。
9章は、米国の福音派について語っている。トランプ現象とその問題点を鋭くえぐり出すという意味では、ここまでコンパクトかつ分かりやすく福音派(そして宗教右派)についてまとめられた一般書はないだろう。読んでいて、すっと頭に入ってくる。
本書は明らかに一つの目的を持って書かれている。それは「世界を見る」ということである。現在の世界の動きを、ざっくりとではあってもストライクゾーンを外さないようにつかみ取るためには、このような視点で聖書を語ることは必須である。
同時に、聖書やキリスト教に興味を抱き始めた人々にとって、とても分かりやすい入門書として活用することもできる。また、クリスチャンとして長年歩んでいる人にとっても、自分が所属する教派や教団を絶対視することなく、「ワン・オブ・ゼム」の視点で自らを省みるという真摯(しんし)な姿勢の大切さを、本書は示してくれるだろう。それは、単一の教えを絶対視して周囲から乖離(かいり)していくことを防ぐことにもなる。
そして本書最大の貢献は、聖書が現代人にとって必要不可欠であることをはっきりと提示している点である。それは「世界を見る(知る)」という点においてだ。この世界を、どの立場から、どんな視点で理解するかはとても大切であるが、その視点を俯瞰(ふかん)的なものへと移すことはなかなか難しい。どうしても近視眼的な視点で物事を見てしまうし、またその方が効率的で簡便であると受け止めてしまいがちである。
しかし、「分断」とか「断絶」という言葉が現状を説明する際にもてはやされる昨今だからこそ、世界を複眼思考で見ることは、現代に生きる全ての人にとって必要なことである。そのために最も役立つツールとして聖書があると訴える池上氏の力点は、正鵠(せいこく)を射たものであるといえよう。
本書はぜひ、教会の聖書講座のサブテキストとして用いてもらいたい。聖書の中身を云々するのは、信者と未信者では観点が異なるからだろう。しかし、「世界を見る」という本書のような客観的な視点は、異なった立場の者にディスカッションの場を提供することになる。ぜひ一人でも多くの人に読んでもらいたい一冊である。
■ 池上彰著『聖書がわかれば世界が見える』(SBクリエイティブ / SB新書、2020年10月)
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