私は、本書『ヤバい神―不都合な記事による旧約聖書入門』の著者であるトーマス・レーマー氏の著作『申命記史書―旧約聖書の歴史書の成立』『モーセの生涯』の愛読者です。特に前者は、「エレミヤ書の中にある、バビロン捕囚前夜・捕囚期に起因する記述が『申命記史家』によるものであるとされているというが、なぜモーセの書のタイトルである『申命記』という言葉と重複しているのか」ということを分かっていなかった私に、スラスラとその答えを教えてくれた書です。
そのレーマー氏の新しい邦訳本が出版されたとあって、喜んで購読させていただきました。邦訳本のタイトルはいささか刺激的ですが、フランス語の原著は『Dieu obscur』で、英訳版は『Dark God』です。いずれも「黒い神」と訳せるでしょうか。日本では商業的な理由などから、このようなタイトルになったのだと想像しますが、内容が「ヤバい」ということはなく、しっかりとした旧約聖書学の本です。
だからといって、聖書を専門に学んでいる人でなければ読めないような難解な書ではありません。冒頭にレーマー氏の2冊の著作を提示しましたが、『申命記史書』が専門的に学ぶ人向けであるのに対し、『モーセの生涯』は一般の読者向けであるように思います。レーマー氏は、専門学徒向けと一般読者向けの両方の本を書くことができる人物なのです。『ヤバい神』は、『モーセの生涯』と同じような一般読者向けの聖書学書であると思います。
本書は以下のような構成になっています。
- 序論 人間に挑みかかる旧約聖書の神
- 第1章 神は男性か
- 第2章 神は残忍か
- 第3章 神は好戦的な暴君か
- 第4章 独善的な神の前に人間は罪人に過ぎないのか
- 第5章 神は暴力と復讐(ふくしゅう)の神なのか
- 第6章 神は理解可能か
- 結論 旧約の神と新約の神
序論では、「洪水による人間の滅ぼし」「イサク献供」「金の子牛を拝んだ者たちの殺害」など、神による残酷な話が取り上げられ、それらの記述がキリスト教の歴史の中でどのように見られてきたかが記されています。レーマー氏は、こうした神の残酷さは、バビロン捕囚前のイスラエルの王や民が神を礼拝せず、律法を守らなかったことに起因した、申命記史家による表現方法によるものであったとしています。さらに、ヤハウェという神の名を説明し、ヤハウェとイスラエルの民の出会いの歴史の中で、聖書はヤハウェを衝撃的に描くことがあるとし、さまざまな疑問を抱かせる記述について論じている本論へ導いていきます。
第1章では、神の性別が論じられており、神ヤハウェは、詩編では王として、預言書、特にホセア書、エレミヤ書、エゼキエル書では、イスラエルの夫または恋人として描かれており、つまり男性的イメージで伝えられていることが述べられています。しかし、創世記1章27節「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」(聖書協会共同訳)の記述から、男性と同様に女性も神のかたちを映しているとして、ヤハウェにも女性的な特徴があるという論述が展開されていきます(77ページ以降)。この部分が本章のキモだと思いますので、詳しくは本書をお読みいただきたいのですが、レーマー氏の見識の高さに感服しました。
第2章では、神の残忍さが論じられています。ここで大きく取り上げられているテキストは、創世記22章のアケダー(イサク献供)と、士師記11章のエフタの娘の犠牲の話です。アケダーでは、アブラハムがイサクに手をかけて犠牲にしようとするところで、代わりの羊が与えられますが、エフタの娘は犠牲となってしまいます。そこで描かれている神は残忍な神なのでしょうか。レーマー氏は、これらについても、特にこれらの記事が書かれた時代の背景を通して、自身の考えを述べておられます。これも、実際に読まれるときのお楽しみにしていただきたいと思いますが、本章で述べられている結論を導くことは、レーマー氏にとっても困難であったことが読み取れます。
第3章では、神は好戦的なのか、ということが論じられています。ここでは、「申命記における君主ヤハウェ」と「ヨシュア記における征服の神ヤハウェ」について、大きく取り上げられています。これについても、レーマー氏は、これらの記事が書かれた時代の背景、特にアッシリアによって征服されていたことの影響を見ています。しかし、本章では末尾において、旧約聖書における神には好戦的な部分があることを否定できないとしつつも、「常に戦争神であるわけでは決してないことを強調せねばならない」としています。そして、ヘブライ語聖書の最終部分である歴代誌下36章23節「ペルシアの王キュロスはこのように言う。天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。あなたがたの中で主の民に属する者は誰でも、その神、主がその人と共におられるように。その者は上って行きなさい」(同)を引き合いに出し、「神は神殿の再建によって、平和な未来を約束するのだ」と結んでいます。
第4章では、神は独善的なのか、ということが論じられています。わけても、性についての旧約聖書における一部の記述は、「神は人間同士の性的関係に何の価値も認めていない」と解釈せざるを得ないとしています。人間の自由が制限されているようにも思われるというのが、本章前半の論点です。しかし、後半では雅歌で展開されている「愛とエロティシズムへの賛歌」を取り上げ、雅歌においては愛と性愛が「神からの贈り物」であると宣言されているとして、本章を結んでいます。雅歌を読みますと、その非宗教性にポカーンと口を開けてしまうことがありますが、本章を読むとやはり雅歌は正典として大切であることを思わされます。
第5章では、神の暴力と神の復讐について語られています。神の暴力については、創世記4章のカインとアベルの話が取り上げられ、神がアベルの供え物だけを受け入れ、カインのそれを受け入れなかったことがカインのアベル殺害につながったとして、論を進めています。神の行為が人間の暴力につながったことを論じつつも、「暴力に向かい合うとは、関ること」として、神の暴力への関わりを、人間への神の関わりの一つとして捉えているように思えます。神の復讐については、詩編、イザヤ書、ナホム書から論じられていますが、神の復讐も神の愛とのバランスの中で書かれていることが語られています。
第6章では、神は理解可能か、ということが応報思想の捉え方を中心に論じられており、ヨブ記とコヘレトの言葉が大きく取り上げられています。コヘレトの言葉については、「コヘレト書を読む」「コヘレトと新約聖書」という2つのコラムを書かせていただいたように、私はこの書の魅力を強く感じています。コヘレトの言葉の大きな特徴の一つは、「神は理解不能であることを、コヘレトは受け入れている」ということですが、レーマー氏も同じことを記しています(214~215ページ)。また、ヨブ記の著者とコヘレトが応報思想に異を唱えているとしています。個人的に非常に興味深い章でした。
結論では、1~6章の内容が、新約聖書でどのように捉えられているかが論じられています。1~6章においては、旧約聖書の多岐性が示されていますが、新約聖書との関連を記すことによって、旧約聖書だけでなく新約聖書にも多岐性があることが示されています。
刺激的なタイトルの書ですが、タイトルだけにとどまってはもったいない、内容に深みのある書であることをお伝えしたく、紹介させていただきました。「積読書」ではなく「必読書」として、ぜひ本書を購読されることをお薦めします。
■ トーマス・レーマー著、白田浩一訳『ヤバい神―不都合な記事による旧約聖書入門』(新教出版社、2022年3月)
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