フィンランドの国会議員にして、元内務大臣のパイビ・ラサネン氏とフィンランド福音ルーテル宣教教区のユハナ・ボージョラ監督らが刑事告訴された裁判で、3月30日、ヘルシンキ地方裁判所は、全会一致の上、両名の無罪判決を言い渡した。
この祈りの課題でもかねてから取り上げていたように(本件の経緯と本質論は当課題2月14日参照)、この裁判への関心は、世界的にも非常に高く、数え切れない良心的なキリスト信者らの祈りがあったことだろう。
ラサネン氏は判決後すぐに記者会見を開き、「ほっとしました。うれしいです。神と支えてくれたすべての人に感謝します。この判決は私が期待した通りのものでした」と述べた。
ラサネン氏とボージョラ氏は、少数民族に対する憎悪の扇動の嫌疑で告発されていた。容疑は、ローマ書1章を引用したラサネン氏のツイート、結婚とセクシャリティーに関する彼女の冊子(ボージョラ氏は、それの出版と配布)、同性愛とキリスト教信仰の問題に関するラジオ番組での発言に関わるもので、事件の発端のツイートから今回の判決に至るまでおよそ3年の歳月がかかったのだ。
ヘルシンキ地裁によると、ラサネン氏の発言の中には同性愛者を不快にさせるものもあったが、それは彼女の表現の自由の限度を超えておらず、フィンランド刑法第11章第10節の意味における「性的指向に基づく集団としての同性愛者を侮辱するもの」ではないとされた。ラサネン氏の言葉は、同性愛者に対する軽蔑、不寛容、憎悪を喚起するものではないと判断されたのだ。また地裁は、彼女には何ら同性愛者らの品位を落としたり侮辱したりする意図はなかったと判断している。判決では特に「聖書を解釈するのは地方裁判所のすることではない」と述べた。
ラサネン氏は、この事件への世界的な関心の高さの理由を「言論の自由に関して国際的に高い評価を得ているフィンランドのような国で、このような言論の自由を問うことが可能なら、同じことがどこの国でも起き得るではないか、という懸念から生じているのです。最新の『法の支配度ランキング』では、フィンランドは3位にランクされています。このフィンランドで、古典的なキリスト教に基づく私の深い信念を表明したために私が刑事告発されたことは、憂慮すべきことです」と述べた。
また彼女が懸念することの一つは、キリスト者が主張すべきを主張せず、自己検閲をして沈黙を守るなら、今後、言論の自由も信教の自由も狭まっていく傾向を避けられないということだ。
2月19日のスペイン福音同盟の総会でのスピーチで、彼女は次のように語っている。
「2019年6月、ヘルシンキ・プライドの支援に署名していた所属教会の指導者に向けて、ある質問を宛てたツイートを投稿したところから、この戦いが始まりました。投稿の主な内容は、新約聖書のローマ書1章の24〜27節をスクリーンショットしたものでした。批判の対象は、自分の教会の指導者であって、少数派ではありません。私自身、多数派の教会がヘルシンキのLGBTイベントを支持すると発表したとき、脱会することさえ考えました。しかし、祈りの中で確信を得たのは、私が今すべきことは沈む船から逃げ出すことではなく、眠っている人々を目覚めさせることの方が良いということだったのです。それで私はあのツイートをしたのです」
彼女は同じスピーチで「クリスチャンにとって、聖書は神の言葉です。私たちはそれに同意しなければなりません」と力強く語った。
多くの困難があったものの、3年がかりの裁判で、彼女は聖書の教えや福音を伝える機会が得られたことに喜びを感じているという。法廷という場所で、パウロの口を通して多くの人々に福音を聞かせたのと同じ神が、今はラサネン氏の裁判を通して語っておられるのではないか。少なくとも彼女は、この法廷に使命意識を持って立っているのだ。
現状では、検察側が控訴する可能性が非常に高いという。しかし彼女は、「私は言論と宗教の自由を、必要なすべての法廷で、また欧州人権裁判所でも擁護し戦う用意がある」と述べ、決して後退しない覚悟だ。
パウロをして、ローマでも立派に証しをせしめた同じ神が、ラサネン姉妹と共におられる。「脱キリスト教傾向」の著しい欧州においても、神はご自身の「残れる者」を握っておられる。ラサネン姉妹が戦っている戦いは、聖書を神の言葉として信じるわれわれ全員の戦いだ。
今回の判決に対する神への感謝とともに、欧州のリバイバルのために祈ろう。ラサネン姉妹と関係者らが、最後まで堅く立つことのできるよう祈っていただきたい。
■ フィンランドの宗教人口
プロテスタント 83・3%
カトリック 0・2%
正教関係 1・1%
イスラム 0・6%
ユダヤ 0・02%