自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私は…ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。…』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』…この人が、義と認められて家に帰りました。(ルカ18:9~14)
8月から9月、徐々に季節が秋に移り変わっていきます。コロナの第5波の中にありますが、もう一度信仰の姿勢を建て直し、大きな視野を与えられて、私たちの信仰生活を「リビルド」、建て直したいと思います。そして、今年の残りの4カ月、充実した日々を歩ませていただきましょう。より成長し、神の恵みを濃厚に体験し、それを現していく者になりましょう。
今日の箇所は、イエス様の例えの中でも有名な、パリサイ人と取税人の例えです。パリサイ人は、人として立派な生活をしている人の代表です。一方、取税人は、モラルが低く、私腹を肥やすために必要以上の税金を取り立て、敵国ローマのためにお金を奪い取る売国奴。嫌われ者の代表です。
この対照的な2人が神殿に来て神に祈りをささげました。そして、どちらが神の恵みを頂いたか、という話で、当然ここで言わんとしているのは、まず、パリサイ人のようにはなるな、ということです。それは具体的に2つのポイントで表されます。
1. 人との比較で満足してはならない
教会に来ていながら、心が神に向いていないとしたら残念です。パリサイ人の祈りは、「神よ」と言いながら、神に目を向けず、取税人との比較ばかりで終わっています。人と比較すると、劣等感でひねくれるか、優越感で高ぶった心に陥るかのどちらかになります。特に日本人は、人の動向や言葉に気が向き、協調性が高いのは良いことですが、ひねくれた者にならないように気を付けましょう。
2. 人を見下す者になるな
罪の中で人を見下すのは恥ずかしい生き方です。一番恐ろしくてやっかいなのは、私たちの高ぶりです。なぜなら、人を見下して優越感を持つ生き方は、神と自分との関係においても自分が神より偉いと思うようになるからです。
また、取税人を通して、取税人を見習うように勧められています。税務署の職員になるというのではなく、2つのことを見習いなさいということです。
1)神様に向かう心がある
パリサイ人は神に対してではなく、人との比較で自己満足に終わっていました。一方で取税人は、自責の念から神に目を上げることができず、下を向いたままでした。しかし、心はまっすぐに神に向いていたのです。私の心が神に向いているか、神が私を見られたときに、何と言われるか考えましょう。
2)素直に悔い改める
自分の損得勘定で生きていないか、自分を神の光に照らして自分がどういう者かを素直に認めましょう。神の前で悔い改めるなら、人生の再スタートを切ることができます。イエスの十字架と復活の恵みを頂くには、悔い改め、人生の再スタートを神に与えられることが必要です。
今、心を微調整しましょう。どこかでパリサイ人になっていないか、素直に自分を見つめ、取税人の祈りを自分のものとしましょう。イエス様が自分をご覧になって、何と言われるかを考えましょう。自分の弱さ、だらしなさを素直に認め、悔い改めて祈るなら、もっと成長してより大きなものを実現できます。
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