ある金持ちがいた。…毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。…その門前にラザロという…貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。…この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで…ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。…アブラハムは言った。…私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。(ルカ16:19~26)
聖書は命の本質について語っています。私たちの命は罪に汚れたものであり、そのままでは真の幸せは得られませんが、イエスを信じ受け入れるなら、キリストの十字架の血潮により私たちの罪は清められ、地上での人生が終わっても霊の世界において神のもとで永遠に生きる命を与えられるのです。地上での命と、神の御元での命と、2つの大きな命の居場所があることを聖書は語っています。
今日の聖書箇所で、地上で好き放題に生きた金持ちと、貧しく病気であったラザロという人物が登場します。この地上では、天と地ほどの差のある2つの命に、霊の世界に移るときに大逆転が起こったのだとイエスは語られました。金持ちは、地獄の裁きの中での永遠の苦しみに居る自分を発見します。ふと天を見上げると、自分の家の前で物乞いをしていた男が天国にいる。運命が逆転したことをアブラハムは告げます。この男は、地上の兄弟が悔い改めるチャンスを与えてほしいと頼みますが、人は生きている間に自分の責任で永遠の命の準備をしなければならないとアブラハムの言葉が響いたのです。3つのことを確認しましょう。
1. 私たちの命の置かれる場所は2つある
死んだ先の霊の世界があなたの魂、存在のありかとして、目に見える人生の向こう側で待っています。その2つの世界を見ていますか? 誰もが絶対に体験するようになることを知ってください。
2. この世と来世とのつながり方に注意する
2つの世界の成り行きには大きな差がある。今の世の中が幸せだから、そのまま死んだ先の世界まで幸せとは限らない。私たちの心の清さ、神と向き合う準備ができているのか、それとも神を拒絶するような罪深い心のままでこの地上を離れてしまうのか、それによって私たちの命の運命は大どんでん返しがあることを知らねばなりません。神とつながる魂の在り方が問われることになります。あなたの心、魂、霊は神に受け入れられ、地上を離れるとき、天に受け入れられる魂になっているでしょうか? 神の愛を受け入れ、永遠の命に向かう、それに備える心を準備する者でありたいと思います。
3. 永遠の命が与えられることを求めて生きる
人間的な損得勘定で、中途半端なこの世の幸せを求める生き方ではなく、死後の世界、霊の世界においても幸せを獲得できる命の在り方を選び取りましょう! 私たちは、その命の在り方を、生きている間に、間に合う間に用意する者でありたいと思います。神のことばをしっかり受け止めて永遠の世界にまで幸せであるように。すでに天に召されている皆ともう一度会って必ず祝福を手にする生き方を自分のものとしていこうではありませんか!
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