(3)中東のキリスト教
a. 2000年のアラブ・オーソドックス
アラブ・オーソドックスはイスラム圏で、エキュメニスティにより「共生」し続けています。残念なことに、欧米のキリスト教界は、アラブ・オーソドックスによるイスラムとの「調和した関係」であるエキュメニスティについて、障害物とみなしています。アラブ・オーソドックスのアイデンティティーを理解できないのです。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「経典の民」という共通項があります。アラブ・オーソドックスも、ありとあらゆる方法で教会は自らの隣人であり、また同じ市民であるイスラム教の人々との生きた対話を交わしてきました。アラブ・オーソドックスの神学者の中には、イスラム宗教思想との神学的対話の糸口を切り開いてきた人々もいます。アラブ・オーソドックスのエクレシア(教会)は、中東のアラブ人全体の苦難、パレスチナの悲劇、シリア難民について自分のこととして痛みを共有してきました。
b. エキュメニカルからエキュメニスティへ
アラブ・オーソドックスの諸教会は、イスラム教が7世紀に誕生した際、イスラム教が広まることについて、自分たちの「解放」につながると歓迎しました。実際に彼らは、イスラム・コミュニティーにおいて、「保護民」(アハル・アル・ジンマ)の身分が与えられました。8世紀以降もイスラム教信者とアラブ・オーソドックスの信者は文化的、知的な対話を展開しました。イスラム教哲学、科学、思想と神学上の論議を展開しました。ムハンマドについて、アラブ・オーソドックスは「預言者たちの道を歩んだ」(サルークフ・フィ・サビール・アル・アンビヤ)と解釈し、イスラム教師(スーフィー)たちに大きな影響を与えました。
トルコ近代史が専門の歴史学者である新井政美(1953~)は、「14世紀中頃にテサロニケ(サロニカ)の主教だったグレゴリオス・パラマスが書き残したところによれば、『トルコ人』たちは、アラブ・オーソドックスを、同じ一神教の仲間、究極的にはイスラームと一致しうる宗教とみなしていた」と認識を示しておられます。「オスマン支配下の社会では、イスラーム教徒とキリスト教徒の『共生』が、当然のこととして実現されていた」と著書で指摘しています。
c. 経典の民の「共生」
創造の教理に基づいた超越論的存在に対する精神的、宗教的自意識は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通しています。13世紀末以降、オスマン帝国支配下の社会では、イスラム教徒とアラブ・オーソドックスの共生が当然のことでした。つまり多宗教多言語が当然でした。
例えば、イスラム教徒は豚肉を食べないとして、そのハラル食品の認知度が日本でも高まっています。しかし、コーラン(正式な名称は「聖クルアーン」)のアル・マーイダ5章6節には次のように書かれています。「今日すべての佳(よ)き物はお前達のため合法とされたり。また経典が授けられし人々の食物もお前達に合法なり。そしてお前達の食物は合法なり」と、ユダヤ教徒の食事規定「コーシェル」のように厳格ではなく、「経典」である旧約を聖典とするアラブ・オーソドックスの信者が食卓で振る舞う豚肉を食べても構わないとします。結婚についても、同じ節では、同じ経典の民同士ならば、宗教が異なっていても、例えば、キリスト教徒の女性とも婚姻することができると認めています。「また信徒たる女性のうち貞節な女達、並びにお前達以前に経典を授けられし人々のうち貞節な女達も、彼女等にその婚資を与えて(正式に)結婚し、私通することや秘密の愛人とするに非(あら)ずば、(お前達には合法なり)」と、異教徒との結婚も認めているのです。
ローマ・カトリック教会は非寛容にも、イスラム教圏を蹂躙(じゅうりん)し、モスクを破壊し、その上に教会を建造してきました。そのことを、ポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920~2005)は2000年3月12日、「(十字軍遠征、異端審問などでは)異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらローマ・カトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで赦(ゆる)しを求める」と、赦しを請うミサを行いました。
社会学者の村田充八(1951~)は、「宗教的指導者は、どのような宗教においても、平和や正義を願う為政者や信徒を世界に送り出す努力をすべきである。パレスチナにおいても、イスラーム教徒とユダヤ教徒が共存していた時代があったとされる。それは、おそらく、一つには、当時の宗教的指導者や為政者が、暴力に訴えることを望まず、『対話』をとおして問題を処理し、宗教の真理に聞こうとする態度を貫いたからではないか」と共通項に立ち戻ることを示唆します。
米国の詩人イライザ・グリズウォルドは、ジャーナリストとして世界の紛争地を回り、キリスト教とイスラム教の二つの宗教の深い関わりを記しています。
「ムハンマドが自分の村を追い出され、ターイフで石を投げられましたが、黙ってメディナ(マディアーナ)に向かったことも知っています」。ムハンマドの『言行録』によれば、西暦619年、メッカの南東110キロ余りの所にあるターイフというアラビア半島の山麓の町に旅をしましたが、農民たちは彼を歓迎するどころか、石を投げ付け、血だらけになった彼を町から追い出したのです。その後、大天使ガブリエル(アラビア語でジブリール)が預言者ムハンマドの元に現れて、ターイフに報復したいかどうか尋ねます。預言者(ムハンマド)は、顔の血を払いながら、『主よ、あの人たちを赦したまえ。彼らは知らないのだから』と祈り、報復を断りました。ムハンマドはイエスとその教えを知っていて、自分が死ぬ前に、イエスのように信仰のためなら喜んで死んでいくように信奉者に指示しました。ムハンマドの言葉は、十字架にかけられたイエスの『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』という嘆願とまったく同じです」
<結論>
米国の宣教師が中東に伝道、異文化交流、難民支援などでやって来ます。しかし、潤沢な経済的援助が喉から手が出るほど欲しい中東のイスラム社会に「受縁力」はありません。今回、トルコ訪問を通じて、「カヨ子基金」の孤児のためのボランティアに対する歓迎は想像を超えたものでした。圧倒的にイスラム教圏でありながら、トルコは宗教多元主義を貫いています。
パレスチナ問題、米国大使館のエルサレム移転、シリア難民問題など、一触即発の危機をはらむ地域で果たす宗教の役割は大きいと実感しました。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の経典の民同士がいがみ合うことをやめ、同じテーブルに着き、「共生」していくように、日本は仲介の労を取れるのではと糸口が見いだされました。政治家ではなく、民間外交を通じて働き掛けることにより、和解へと歩めるでしょう。とりわけ子どもたちの世界には、損得の打算、戦略、狡猾(こうかつ)な駆け引きはありません。孤児「支縁」の働きは不信の壁を取り除きます。2千年間にわたるアラブ・オーソドックスの知恵が必須です。2021年1月23日、イスラム教の宣教師、ユダヤ教のラビと鼎談(ていだん)することを帰国後取り決めました。かたつむりのように、少しずつ、歩み出します。
「彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない」(ミカ4:3)
「まことに、見よ、草のように彼はその地から萌(も)え出る。彼の麗しさは花のように咲く。(だが)彼の風が吹きつけると、その根元は枯れる。(中略)慈愛にふさわしく、あなたがたの魂を。命に至る道をあなたがたは探究しなさい」と、死海文書の「知恵文書」は語ります。限りある人生において、他者と共存していく道を探究していきましょう。(終わり)
■ キリストはキリスト教だけのものではない:(1)(2)(3)(4)
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