<序>
美しい山並み、季節ごとに咲く里山の花、小川の清流の上で舞うチョウなど、日本の幾世代にも心和ませてきた営みが瀬戸際に立たされています。筆者が子どもの頃、下校時に田んぼのあぜ道でユスリカの大きな群れをくぐるとき、鼻で息をしていたら入り込んでしまったことも、今では経験しなくなりました。コメを食べるためというより、商いのためにより高い収穫高を目指し、反収を追求するあまり、ネオニコチノイド系農薬などの農薬散布が行われ、幼虫などが絶滅状態です。あぜの脇を流れる春の小川にイトミミズも見かけません。生態系がだんだんむしばまれています。人間様の経済優先、技術進歩、効率計算により、日本だけでなく、地球そのものが死に体で土俵から転げ落ちそうです。すると空の神様が怒っているかのように、雷がゴロゴロと光っています。空中の窒素を固定化させ、天然の窒素肥料をもたらしてくれる「稲妻」が、「神鳴り」といわれるゆえんどおりの「怒り」に変わりました。(ヨブ38:25)。
そうした中で2011年3月11日、ノアの洪水かと思われるほどの最大40メートルを超える大津波が東北を襲いました。3月21日、初めて見た荒廃した宮城県石巻市の光景は、まさに「死都」でした。水産の都として誇った活力は、木っ端微塵(みじん)に砕かれていました。東北6県で最大の被災者を出した漁港、港町、水産加工の工場地帯は、黒い津波の龍に飲み干され、いのちが消えていました。
最初に足を踏み入れた齋藤病院に医療物資を持ち込んだときは、さながら野戦病院でした。がたがたと寒さで震えている患者ばかりでした。避難所はどこも激臭が立ち込め、暖もなく、不衛生で死を待つばかりの劣悪な環境に後ずさりをしました。
石巻地方では、関連死、行方不明を含めて約6千人が亡くなられました。約2万8千棟の家屋が全壊でした。「避難所」から「仮設住宅」へ、そして「復興住宅」が最終ゴールであるかのようにメディアも報道し続けています。ですから、「創造的復興」として住まいの再建に区切りがついたと、階段を登り切った記事が一面を埋め尽くします。
(1)第106次東北ボランティア
a. 最大の被災地 石巻
2020年3月9日、神戸市から2台のワゴン車で石巻市に向かいました。参加者は12人です。神戸新聞社の竹本拓也記者も同行され、石巻地区森林組合を13人で訪問、大内伸之理事長に歓迎されました。大内さんは2011年に発足した石巻刷新会議に当時、鈴木健一代表理事と同行なさっていた人です。この地域では何百年もの間、農村部と漁村部の代表者の間で顔合わせがなかったそうですが、宮城県漁業協同組合の丹野一雄会長と石巻市渡波(わたのは)地域農業復興組合の阿部勝代表は、この大地震、津波を契機に、阪神・淡路大震災を経験した筆者と定期的に話し合うことになりました。
9年前、最初はドロ出し、がれき処理、家財道具運搬、支縁物資配布などに取り組んでいました。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)の通り、ボランティアに参加した学生たちは朝早くから夜遅くまで、被災者の願い通りに動いてくれました。こちらから何かをしてあげるとか、マニュアルに沿ってプログラムをこなすのではありません。助けが必要な場所に駆け付けました。
これまで通算2千人近くの学生、フリーター、ビジネスパーソンたちが、交通費、食費、宿泊費を負担して、片道15時間、約1100キロの行程を、到着を待っておられる被災者の元に毎月のように向かうことになりました。関西では食べたことのない海のパイナップルといわれる「ホヤ」、東北の郷土菓子「ずんだもち」、日本一といわれる牡蠣(かき)も食べるゆとりなどまったくありませんでした。しかし、参加者は温かい人情味豊かな東北人に魅了され、移住を希望する人たちも出るほどでした。激しい労働の帰途、石巻の人たちと別れるのがつらくてバスの中で涙を浮かべる人の中には、続けて参加することをいとわれない人も多くおられました。
b. 田・山・湾の復活
神戸国際支縁機構が取り組んでいる「田・山・湾の復活」は、自然との「縁」を回復する働きです。災害の爪痕を振り返りますと、あたかも自然が人間に復讐(ふくしゅう)しているかのように映ります。近年、それもパンデミック(世界的大流行、ギリシア語 πάνδημος / パンデモス= πάν / パン 「すべての」の意 + δημος / デモス 「人々」の意)の規模です。「リング・オブ・ファイア」(環太平洋造山帯)の火山爆発も他人事ではありません。
「すべての川は海に注ぐが海は満ちることがない。どの川も行くべき所へ向かい、絶えることもなく流れゆく」(コヘレト1:7)に、「海は満ちることがない」と記されているように、海の水は蒸発して雲になり、やがて山で雨、雪などとなる循環体系が聖書には描かれています。すべての川は海に注ぎ込みます。しかし、海は満ちることがありません。「どの川も行くべき所へ向かい、絶えることもなく流れゆく」のです。自然界も循環しているのです。
宮城県気仙沼市にNPO「森は海の恋人」の畠山重篤理事長がおられます。森と川、海がつながり、鉄が海に供給されれば、美しい故郷はよみがえると訴え、住民たちと植樹をなさっていました。2012年12月28日にお話を聞きに行きました。伺ったのは、機構の東北ボランティア初代リーダーである山本智也君、機構の現代表である村上裕隆君、そして筆者の3人です。
機構の水垣渉理事(京都大学名誉教授)が言われていました。「昔の日本家屋は、縁の下をのぞき込むと、家をしっかり支えている太い柱が見えました。こういう柱の一本になって、人々の結び付きを下からいつまでもじっと支えていこうというのが、神戸国際支縁機構の名前の意味」であると。昨年の台風15号で甚大な被害を受けた千葉県館山市の布良(めら)地区にボランティア訪問した際、NPO「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表と出会いました。頂いた資料の中に、深津文雄牧師(1909~2000)が「かにた婦人の村」を創設され、知的・精神障がいによる社会復帰が困難な女性、性的虐待を被った女性たちの避難所を設置された論考がありました。深津牧師の説かれる「底点志向」は、「縁の下」からの働きと通底していると思います。上からの目線ではなく、常に抑圧され、差別され、いじめられている弱者に下から寄り添っていく姿です。まさに understand(under / 下に + stand / 立つ)なのです。
c. 日本は「防災」⇒「災害」⇒「復興」のボタンの掛け違え
避難所訪問、農林漁ボランティア、在宅被災者戸別訪問を展開しながら、現場にいると気付かされることがあります。ボランティアは何の見返りも期待していません。売名行為でもありません。裕福になるどころか、いつも貧しさと背中合わせです。「復興」のために時間、体力、お金を用いて取り組んでいるからこそ見えてくることがあります。「無償」「自主」「対話」を柱として被災者に接しているからです。
一方、防災○○会議、社会福祉協議会(ボランティアセンター)、産(事業者)、官(県・県警・県教委)、学(学識者・医療関係者)、民(青少年団体)、言(新聞、テレビ)などは上から目線で、しかも机の上でパソコンを駆使して活動しています。報道を通じて、権力者側のアイデアを掃いて捨てるほど百花繚乱(りょうらん)のように提言します。政府、官公庁、教育機関からの潤沢な資金を持て余しているのか、ネットワーク、組織、全国的規模で展開します。「しかし」です。「防災」を考慮するのに、現場で自分の費用で汗を流されたことがない御仁には、被災者の辛酸に感情移入することは難しいのではないでしょうか。「防災」を考慮するのに、彼らは「ダム」「森林の手入れ」「食糧安保」についてどれほど現実的な発題をしてきたでしょうか。
例えば、ダムは数年で土砂が堆積し、河床が上昇することが宿命です。また、サケなどが産卵のために上流を目指すことを妨げることになります。自然生態系を損なっています。
「防災」を考慮するというなら、危険な場所を補強して国土強靱化すれば災害に対して大丈夫といえるのでしょうか。「災害」の実例から考慮してみましょう。(続く)
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