(2)二項対立から聖書の原典へ
a. 原始キリスト教団の基準
パウロは、同胞のユダヤ人、小アジアのギリシャ人、ローマから遣わされている総督のローマ人たちからも迫害され、白眼視され、決して歓迎されていませんでした。宣教旅行の目的は福音を分かち合うことであり、改宗が目的ではありませんでした。ユダヤ教は、「割礼」が入信のイニシエーション(入信儀式)でした。聖書にも「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」(使徒15:1)とあります。
一方、キリストと出会った者たちは、「割礼」ではなく、何をイニシエーションにしたのでしょうか。コンスタンティヌス帝(コンスタンティーヌ1世、280頃~337)は、ミラノ勅令(313年)でキリストの道を公認しました。さらに392年、キリスト教はテオドシウス帝によってローマ帝国の国教とされます。
初代教会は城門の外に住んでいる貧しい人々で構成されていました。エクレシア(「集会」「教会」の意)は、城門の中の街や市民の住居とは異なる洞窟にありました。各エクレシアの出席者数は多くて50人ほどでした。そこに集った人々は、「割礼」と「洗礼」のどちらを選ぶかは関心事ではありませんでした。「洗礼」が公式の入信儀式となったのは3、4世紀ごろです。初代教父たちにより、ミサ、聖餐式などの7つのサクラメント(秘蹟〔ひせき〕)が決められ、ラテン語の典礼が確立されていきます。「割礼」か「洗礼」かによって、再び「2つの壁」を隔てた宗教勢力図が地中海沿岸に広がっていきます(エフェソ2:14参照)。
イエス・キリストは洗礼を施すことはなさいませんでした。小アジアで第1次、第2次、第3次の宣教旅行をしたパウロは、「洗礼」を施すことには関心がありませんでした。福音はキリストの死、葬りとよみがえりが中心テーマだったのです(コリント一15:1~3)。「死」「葬り」「よみがえり」以外はオプションです。「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空(むな)しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです」(コリント一1:17)
洗礼の動詞はギリシャ語で、βαπτίζω(バプティッゾー)です。原意は「身を沈める」「頭の先から足のつま先まで沈める」であり、「低みから見直しをさせる」ことです。ギリシャ語の「洗濯する、洗う」の λούω(ルーオー、使徒9:37)、「清める」の ἁγνίζω(ハグニッゾー、ヨハネ11:55、使徒21:24、26)とは異なります。従って、バプテスマ(洗礼)は、決まった形式での潔(きよ)めの儀式、すなわち洗うではありません。「洗礼」ではなく「悔い改める」(動詞 μετανοέω / メタノエオー = μετα / メタ〔変化〕+ νοῶ / ノオー〔考える〕)です。つまり「視座を変更する」ことが求められています。「否定の論理」です(マルコ1:15参照)。メタノエオーは新約に33回出てきます。名詞形のメタノイア(同22回)と併せ、パウロは弁証したのです。
b. アジアこそ原始キリスト教団の領域
キリスト教の歴史は2千年といえるでしょうか。聖書に「キリスト教」(クリスティアニスモス)という言葉はありません。私たちはキリスト教が欧州から出発したという先入主があります。しかし、政治権力と結び付いたキリスト教界から迫害された中東のアラブ・オーソドックス(正教会)こそ連綿とした2千年の歴史があります。21世紀の今日でも、シリア、トルコ、エジプトなど広範囲に存在しています。ギリシャ語 οἰκουμένη / オイクーメネィ(「人間が居住する世界」の意)から英語の ecumenical(エキュメニカル)という語ができました。Ecumenicity(エキュメニスティ)はエキュメニカルの名詞形です。
「人間が居住する世界」とは「全世界」です。オイクーメネィは「オイコス」(ギリシャ語で「家」の意)から派生しています。地球は神の「家」ともいえます。1世紀の初代教会において、福音は「全世界」(ギリシャ語では、ὅλῃ τῇ οἰκουμένη / ホレィ テェィ オイクーメネィ)に宣言されました。「そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣(の)べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ24:14)の「全世界」とは、皇帝オクタウィアヌス(アウグストゥス)の「全領土」です(ルカ2:1)。西暦70年にエルサレム神殿が崩壊し、ユダヤ教の全土(エルサレム、ユダヤ、サマリア)にはもはや教会も残っていません(使徒1:8)。現在のトルコ(カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア)や、エジプト、リビア、ローマなどが「全世界」の領域を指します(使徒2:9、10)。パウロ、フィリポ、テモテたちによって、福音が「世界中に」まで及んだのです(ローマ10:18、テモテ一3:16)。ですからパウロは証言しています。「あなたがたにもたらされたこの福音は、世界中(ギリシャ語では、παντι τῷ κο μῳ παντι το κοσμο / パンティ トォゥ コズモゥ、「世界、宇宙、被造物の総体」の意)至るところでそうであるように、あなたがたの間でも、神の恵みを聞いて真に理解した日から、実を結んで成長しています」(コロサイ1:6)
農夫にたとえられるキリストが、4つの土壌に種をまかれたのです(マタイ13:1~9、マルコ4:1~9)。ですから、米国生まれのものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)や、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、あるいは韓国の熱狂的なキリスト教団体のように、無理矢理の改宗をもたらす伝道に聖書的根拠はあるのでしょうか。キリストやパウロ、原始キリスト教団が語った聖書原典を無視していることにならないでしょうか。聖書では、伝道、布教、改宗のための行為より、「収穫」が求められます(ヨハネ4:35)。福音はすでに「世界の果てにまで及んだ」のです(ローマ10:18)。
前千年王国説(Premillennialism)のように、千年王国を前にキリストが再臨するという終末論を信奉すると、異教徒は新しい神の国に入ることが許されないという選民意識が醸成されます。従って、異端を排除することになります。十字軍と同様、異端に攻撃的です。身体的拘束、(精神的)拷問、強制改宗をしても良心に焼きごてを当てられたように呵責(かしゃく)を感じません。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」(エフェソ4:2)で、パウロが述べる「寛容」こそが、いわば原始キリスト教団が持っていた資質です。
c. 異端を排除してきたキリスト教界
筆者が2020年11月23日に訪問したトルコ西部のニカイアで、西暦325年に最初の公会議(第1ニカイア公会議)が開かれました。当時、ネストリウス(381~451)は、コンスタンティノポリス(現イスタンブール)の総主教でしたが、イエスの母マリアに対する「神の母」という称号に反対していました。しかし、キリストには人性と神性の両性があるという両性論(Dyophysite)について、キリストには2つの本質(性)と2つの実体(位格)があることには反対していませんでした。にもかかわらず、アレクサンドリアの司教で教会博士のキュリロス(376~444)は、431年にエフェソスで行われた第3回公会議(エフェソス公会議)でネストリウスを異端とし、免職、断罪、追放しました。
ネストリウス派として、アッシリア人、エチオピア人、インド人たちでキリストを神として、また人として受け入れていたオリエンタルの信者たちは、カルケドン信条(451年)を受け入れず、当時の礼拝と聖書教義を今日まで守り続けています。ミュンヘン大学にエキュメニズム研究所を設立したヴォルフハルト・パネンベルク(1928~2014)は、ネストリウス派とキュリロス双方の「キリスト論」について詳述します。キュリロスからネストリウスは「単性論」として排斥されたわけですが、いまだに何をもって異端なのかは、はなはだ不可解です。
パネンベルクは註解します。「カルケドン信条の受容を強要する試みは、(中略)キリスト教の最初の大きな教派分裂への機会を開いた。(中略)カルケドン会議に続く信条をめぐる論争の結果、キリスト教帝国の弱体化が起こり、最終的にはほとんど戦いをまじえずにシリア、パレスチナ、エジプトといった単性論の普及した地域がイスラームの手に帰した」と。日本基督教学会理事長であられた水垣渉(1935~)は、両派の論争を正しく説明できる人はいるだろうか、とトルコから帰国した筆者に語られました。なぜなら、激突している両派の用語が日本語に的確に翻訳できないからだという理由です。
d. 非戦の原始キリスト教団から十字軍へ
歴史家ローランド・H・ベイントンは、「新約聖書時代の末から、紀元170~180年ごろまでには、軍隊にキリスト教徒がいたという証拠はない」と述べました。キリストご自身が「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われました。
ミサという語を初めて用いたアンブロシウス(334~397)や、西方教会の神学の父といわれるアウグスティヌス(354~430)によって、戦争観が「非戦」(renunciation of war / レナンスィエーション・オブ・ウォー)から「正戦」(just war / ジャスト・ウォー)へと180度、変貌するのです。アウグスティヌスは、ドナトゥス主義との論争において「正しい戦争」があると語ります。さらに、グレゴリウス7世(1020~1085)により、第1回十字軍の聖戦(praelia sancta / holy war / ホリー・ウォー)がクレルモン公会議で唱道されます。「あなたたちは、東方にいる同胞たちに大至急、援軍を送らねばならぬ。ペルシアの住民なるトルコ人が教会を破壊し、神の国を荒らし回っている。あの忌まわしい民族を私たちの土地から根絶やしにしろ!」とウルバヌス2世は宣戦布告をします。十字軍遠征は、欧州のみならず、中東にも実りない暴力の時代をもたらしました。
ローマ・カトリック教会は11~13世紀に、十字架の旗印を持ってイスラム領域に熾烈を極める侵攻をした歴史があります。東京国際大学特命教授の塩尻和子(1944~)は「十字軍」が何をしたのかを次のように語っておられます。「十字軍兵士は、ムスリムだけでなく、[アラブ]キリスト教徒やユダヤ教徒まで残虐に殺害したばかりか、それらの遺体を食糧として焼いて食べるという、世界史の中にも類を見ないほどの蛮行を働いたことも見聞きされている」
米国の宗教社会学者ロドニー・スターク(1934~)は、イスラムがアラブ・オーソドックスを蹂躙(じゅうりん)していたし、西欧に攻め入ったので、十字軍遠征は正当防衛だと論じます。さらに十字軍兵士は純粋な信仰の持ち主と擁護します。著書の中で「概してムスリムに帰される洗練された文化(さらには「アラブ人の」文化とも言われる文化)は、実際には被支配民の文化、すなわちビザンツで培われたユダヤ的、キリスト教的、ギリシャ的な文化、コプト派やネストリウス派のような異端キリスト教徒集団の注目に値する学識、ゾロアスター教徒(マズダク教徒)の知識、そしてヒンズー教徒の偉大なる数学的な成果(インドにおける、初期の大規模なムスリムの征服活動のことを思い起こしてほしい)に他ならなかった」と、徹底してムスリムたちを文明人ではないと非難します。スタークの論駁(ろんばく)は循環論法です。ムスリムはAの功績を活用。Aのおかげで医学、科学、文化は発達したと導きます。Aはキリスト教徒だから、ムスリムは非文明的である。故に排除の対象になったのだという論法です。スタークの大きな過誤は、Aは正統ではなく「異端」と排斥していることです。
イスラムが内包している医学、天文学、数学がむしろ西洋に貢献したことを忘却しています。1993年に、米国の政治学者サミュエル・P・ハンチントンが発表した『文明の衝突』を温存させる二元論的発想です。彼のような世界観を首肯する限り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が共存する時代は遠のくでしょう。キリストによる ἀνακεφαλαιῶ / アナケファライオー(「ひとつにまとめる」の意、エフェソ1:10)を妨害しています。「平和」の敵であるということです。
過激派の「イスラム国」が欧米や有志連合の国々を「十字軍」と非難し、捕虜を焼き殺す場面に世界中の人々は身震いしました。しかし、過去・現在の「クルセード(十字軍)」や「イスラム国」の残虐テロ、キリシタン弾圧などの蛮行について、「すでにあったことはこれからもあり、すでに行われたことはこれからも行われる。太陽の下、新しいことは何一つない」(コヘレト1:9)という歴史認識が求められます。「異端」だとし、西洋の伝統的教会が他の宗教、イスラム教やアラブ・オーソドックス、北米の原住民インディアン、インカ帝国の住民を「神に救われていない」と蔑視し、強制改宗に明け暮れたことをキリスト教界は忘れてはいけません。
北米初の外国伝道組織「アメリカン・ボード」には、明治維新の際、宣教師を採用する条件がありました。「基督を信ぜざる外国人の霊魂は悉(ことごと)く永遠の刑罰に預かるとの信条を信ずるを必要として居た。(中略)此(こ)の教理を信ぜざるものは決して宣教師として推薦せぬと断言して居た」と。改宗を迫り、仏壇などを焼かないと「洗礼」を受けることができない非寛容なキリスト教と、寛容なアラブ・オーソドックスを同列に論じることはできません。後者はイスラム教など異教徒を排除しませんでした。エキュメニカル運動はキリストを信じる者同士の超教派の活動です。一方、「エキュメニスティ」は、他教徒の礼拝、教義、スピリチュアリティーを軽んぜず「共生」します。
政治と宗教が断絶しないで直接的に関係付けられてしまう危険性の中に、こうした問題の重要性があると、プロテスタント神学者パウル・ティリッヒ(1886~1965)は語ります。「アメリカの状況では、(中略)一つには、平和を求める雰囲気が残っているなら、戦争を繰り返し否定することができるだろう。さもなければ、戦争を引き続いて肯定するかもしれない。これまで、戦争中のプロパガンダによって、十字軍の精神が昂揚(こうよう)されてきた」と、キリスト教神学における危険性を指摘しています。
■ キリストはキリスト教だけのものではない:(1)(2)(3)(4)
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