「なんぢ人を塵(ちり)にかへらしめて宣(のたま)はく 人の子よなんぢら歸(かえ)れと なんぢの目前(めのまえ)には千年(ちとせ)もすでにすぐる昨日のごとく また夜間(よのま)のひとときにおなじ なんぢこれらを大水のごとく流去(ながれさ)らしめたまふ かれらは一夜(ひとよ)の寝(ねむり)のごとく朝(あした)にはえいづる靑草のごとし 朝にはえいでてさかえ夕(ゆうべ)にはかられて枯(かる)るなり」(詩篇90:3~6、文語訳)
<序>
現地時間2020年10月30日午前11時50分ごろ、マグニチュード7の地震がトルコのイズミルとギリシャのサモス島(使徒20:15参照)を襲いました。津波も発生し、被害を増大させました。トルコで117人、サモス島で2人が死亡しました。イズミルは西暦1世紀当時、スミルナと呼ばれ、近くにはエフェソスがありました。エフェソスはアジアと欧州の交易・通商の場、人々が行き交う港湾都市でした。
古今東西にかかわらず、大切な人を亡くすことは大きなストレスです。日本の医療体制は非常に脆弱(ぜいじゃく)と言わざるを得ません。2000年代前半に始まった日本独自の「診療報酬制度」により、医師、看護士不足と医療体制の脆弱化の問題が深刻になっています。「入院しても3カ月を超えたら病院を追い出される」という風聞が広がっています。人間の健康、治療、福祉について、一つ一つの医療行為を点数化して判断するのです。診察の際、聴診器を当てて患者と向きあうことより、コンピュータ画面に現れるデータで病状を判断します。小学校の成績判断、受験の偏差値、企業の業績など、何もかもに「数字信仰」の呪縛がはびこっています。医療現場でも、対価(=金額)に換算する繁雑な事務作業が増えています。現行制度では、十分な入院費用を取れないので早々に退院させます。すると、公的病院の収入はがたがたと減ってしまいます。病院だけでなく、大学においても教授たちは専門の研究より、学生を数字で管理し、文科省からの複雑な事務作業の要求や統治のためにエネルギーを割いています。合理主義の父ルネ・デカルト(1596~1650)の影響が、日本の明治維新以降の能率・合理化を推進する思惟(しい)の遺伝子を継承させていると筆者は思います。
新型コロナウイルスをめぐる医療対策も後手に回っているのではないでしょうか。
訪問中の2020年11月25日、トルコは、日本や欧米など多くの国と同じように、無症状の陽性者も含めた「感染者数」の発表に踏み切りました。その結果、1月4日現在、累計の感染者数は224万1912人で、世界7番目の多さです。死者数は同日現在、累計で2万1488人となりました。私が訪問した期間中に、学校は全学年で再びオンライン授業になり、レストランはテイクアウトとデリバリーのみ営業可でした。映画館やサッカー場は閉鎖でした。
第1部 第1次トルコ災害ボランティア報告
(1)トルコの地震、津波
a. トルコとは
トルコはイスラム教圏です。2020年10月30日に地震の速報が入りました。イズミルでマグニチュード7・0という内容で、死者24人、負傷者804人というBBCの報道です。トルコは日本と同じ地震大国です。コロナ禍のため、日本からトルコまで行けるかどうか、また行けたとしても帰って来られるかどうか、確かな情報はありませんでした。オスマン帝国(現トルコ)の軍艦が和歌山県串本町沖で沈没したエルトゥールル号遭難事故(1890年)の際、日本側が救助した69人は神戸・和田岬の病院で治療を受け、神戸から帰国しました。その恩返しなのか、イラン・イラク戦争(1985年)でイランの首都テヘランに足止めされた200人以上の日本人をトルコ航空が救い出したこともあり、トルコは何かと神戸市と縁が深い国です。
b. なぜトルコに
がれきの下敷きになった孤児、親のいない子どもたちのうめき声が聞こえてきました。筆者夫婦は実子がいなかったため、養子を預かり育てました。しかし、実母の愛情がはるかに勝り、行状においても父親らしいことは何もしてあげられませんでした。家庭を顧みない最低の夫、父親でした。養子が実母の元に帰ったとき、「四苦八苦 生老病死 愛別離苦」の「愛別離苦」の苦悩で、心の寂寥(せきりょう)感を代替する慰めはありませんでした。妻カヨ子は半年間、半狂乱でした。国民宿舎など近くの安価な温泉へ二人で出掛けたものです。自然のうつろいの景色、出会う人々の人情、料理をいただいても埋め合わせることはできませんでした。かつて親子3人で過ごした日々は、私たちの人生の中で黄金時代でした。カヨ子に「人生の中でいつが一番楽しかったか」と尋ねると、「そうだわね。たくさんあるけれど・・・、3人でペンシルベニア州ピッツバーグの会衆で過ごした、あの時だわ」とハッキリと声にしました。意外でした。異端といわれているエホバの証人時代の伝道に明け暮れ、身体的に限界だった時期だったからです。戸別訪問の枷(かせ)から解放されていたこともあったのでしょう。指導者の妻として、精いっぱい、筆者を支えてくれていました。何よりも3人での訪米は彼女にとり、神様からの最高のご褒美だったのだと思います。
c. 孤児への関心
私たち夫婦にとり、同じくらいの年齢の子どもが運動会やバザーの演技、勉学に励んでいる姿を見ると、穏やかな気持ちになることに気付きました。神戸市灘駅南側にある「ウリハッキョ」(朝鮮語、「私たちの学校」の意)の行事には、教会のメンバーたちと欠かさず参加するようになりました。朝鮮学校の児童・生徒がわが子のように思えました。宮城県石巻市の孤児、2015年にはバヌアツ、そしてネパールの被災地における子どもたちの叫び声にカヨ子の感性は敏感でした。国内の被災地だけでなく海外においても、筆者が無事に働きに仕えられるよう、カヨ子が家で真剣に祈っていることが伝わってきました。そうする中、国境を渡河して、孤児の養護施設を造ろうと考えました。すると不思議にも、海外で子どもたちを世話する良き人たちと出会うようになりました。
(2)イスラム教圏
a. 危険性はなかったのか
トルコはイスラム教圏です。私たちは、「イスラム国」のテロによる洪水のような報道に数年さらされました。「イスラム教は怖い」というイメージを、日本人は一般に持っています。ましてや、新型コロナウイルスの第3次感染者増大の中、海外に行くことすらできないと思っている人が多いです。おまけに、筆者はキリスト教会の牧師ですから、一般の日本人はイスラム教と敵対関係だと思い込んでいます。同じキリスト教会の牧師たちは、トルコ訪問と聞くやいなや無謀という反応でした。
b. 出国
当時、関西から成田空港行きの便はありませんでした。ドーハやイスタンブールの航空会社などに直接連絡して予約をしました。成田空港からの海外便は運航しているのか不明でした。羽田空港から成田空港まで電車で向かったものの、車中、海外旅行者らしき人の姿はありません。運航しているかどうかぶっつけ本番でした。空港は免税品店、搭乗カウンターもゴーストタウンのようにひっそりしていました。人もほとんど見掛けませんでした。
2019年9月9日、第4次インドネシア災害ボランティア訪問の際、台風15号の影響で成田空港は飛行機の発着が遅れ、空港内は雑魚寝の海外旅行者であふれ、歩くことができないほどでした。今回は予定時刻になっても、本当に離陸するのかどうか、誰も分からないという状況でした。この時はカタール航空だけが運航しており、通常は飛行機1機に約300人が乗るところ、搭乗したのは50人ほどでした。機内では、カタール航空から提供されたフェイスシールドを装着するよう指示されました。
c. トルコ着
地中海が窓から見え、イスタンブールに到着です。税関の外国人ラインは筆者一人だけでした。国内線のペガサス航空が7回目の乗り換えでした。イズミル空港で手続きを終え、胸をなで下ろしました。欧州、アジアの交差する国際都市では、中国人や韓国人のスーツ姿のビジネスマンを必ず見掛けます。しかし今回ばかりは、トルコ人ばかりです。英語がなかなか通じないのには閉口しました。まるで他の星雲に降り立ったかのようです。空港からダウンタウンまで45分かかります。車窓から見るイズミル市街地は、レバノンのベイルートより近代的な広い道路、高層ビルが建ち並び、トルコ第3の都市らしい大都会に圧倒されました。1923年に建国したトルコは、中東の大国へ躍進していました。
ボランティアでの訪問ですから、高級ホテル、ごちそう、快適さとは無縁です。平素なら貧しいスラム街に真っ先に向かい、寝袋で過ごします。しかし今回だけは、被災現場に近い安価なアパートを予約していました。自炊になります。部屋に手作りマスクなどの荷物を置くと、すぐに被災現場のバイラクリ地区に行きました。高層ビルが倒壊しており、「危険」とトルコ語で表示されていました。近づかないように警備員が見張っていました。
(3)孤児たちに寄り添う
a. 避難所訪問
11月24日朝、朝食にパン、ヨーグルト、トマト、オリーブと紅茶を胃袋に放り込んで出発です。45分ほど歩いて、地震で住居を失った人々の避難所に行きます。孤児がいないかどうか尋ねます。家、家族、職場を失った人々の心をケア(care)するのは、専門家ではなく、もっぱら宗教者に委ねられていました。キュア(cure、治療)は医師が避難所に常駐して行っていました。
b. イズミル総合市長表敬訪問
孤児たちのために養護施設を建造することが訪問の第一目的です。イズミルの状況について聞くため、トゥンチ・ソイヤー総合市長に神戸から連絡しました。目的、日程、神戸国際支縁機構の沿革を申し上げて面談を打診しました。トルコ語ができないので英語です。幸い、井戸敏三兵庫県知事、久元喜造神戸市長も親書を託してくださいました。
現地では、日本からのボランティア団体が来るということで、報道機関各社が待ち構えていました。本来なら、ネクタイ、背広、磨いた靴で訪問すべきところを、神戸国際支縁機構が世界各地に孤児の家を造っているということで、無礼講が許されました。ソイヤー総合市長から被害の詳細を聞き、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震からの復興について、教育の大切さについてなど、約1時間対談することができました。
c. 孤児たちとの出会い
日本では11月3日から募金活動を始めました。イズミルに孤児の養護施設を建造するには100万円が必要です。今も、全国のみなさんからの協力を求めています(送金先は記事下部に記載)。また、教育費として1人に月3千円を応援くださる里親を5人募集しています(詳細は「カヨ子基金」のページ)。孤児である兄弟との出会いは、第2次トルコ災害ボランティアの足掛かりになりました。帰途は当初、マニラ経由の予定でしたが、ドーハの航空会社から電話があり、ドーハから成田空港まで直行することになりました。そのため、空港に4時間早く行かざるを得なくなり、イズミルでお土産を買う時間もなくなりました。ペガサス航空をキャンセルし、トルコ航空の空席を入手。イスタンブールまで飛び、4時間をつぶして、ドーハでトランジット。長時間待たせたことなどで、特別会員用のラウンジに入れてもらい、軽食もいただきました。11月26日夕方、成田空港に到着したものの、検疫所の検査で乗客全員が5~6時間要しました。寝袋があったおかげで、どこでも休めることができ益になりました。ハイエースで迎えに来てもらえたことも感謝でした。入国、帰国も不可能だと思っていたのがウソのように円滑であったことを神様に感謝しました。(続く)
■ トルコ・ギリシャ地震救援募金(2022年3月31日まで募集)
銀行振込:ゆうちょ銀行 〇九九店 58077
郵便振替:00900-8-58077 ※通信欄に「トルコ」と記載
受取人名:一般社団法人神戸国際支縁機構