クリスチャントゥデイは2002年の創立以来、多くの皆様に支えられ、5月20日で満18周年を迎えることができました。これまで長きにわたり、ご愛読・ご支援いただき、誠にありがとうございます。創立18周年を記念して、今年は新型コロナウイルスが世界を席巻している状況を踏まえ、「100年に1度のパンデミック、教会は何を問われているのか?」をテーマに企画を用意いたしました。コロナサバイバー、牧師、神学校教師、大学教授、政治家、ホームレス支援者など、さまざまな立場の方から寄稿を頂きました。第8回は、東京基督教大学特別教授の稲垣久和氏による寄稿をお届けします。
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精神主義的な権力行使による日本のコロナ対策
日本の権力行使の仕方は法的発想ではなく、情緒的かつ同調圧力といった独特の形でなされることが多かった。西洋的合理主義ではなく、真綿で首を絞められるような非合理的圧迫感とでも表現したらいいだろうか。古代天皇制国家の成立以来の大筋がそうだろう。権力行使の面での日本的特徴は容易に改まるものではない。
25日に全面解除となった緊急事態宣言についても、罰則などはなく「自粛」という形で行われた。もちろん、これ自体は市民のモラルから自発的にそうすべきだと思うが、そして多くの市民はそうしたと思うが、それでも営業しなければ生活できない人々がおり、これらの人々に営業を控えてもらうには、まずは法的な補償で対処すべきである。しかし現政権はそれをせず、あくまで「自粛」を求めるという形で行った。ようやく国民の批判にさらされ補償が始まっても後手に回り、スピード感が全くない。
西洋的合理主義の所産は言うまでもなく近代科学であり、これは十分に日本文化に取り入れることに成功した。しかし科学の成果は輸入できても、その精神は十分に日本人のものとはならなかった。明治初期から今に至るまで「和魂洋才」のままではないだろうか。戦時中、零戦のような優れた性能を持つ戦闘機を開発する能力を持ちながら、神風特攻隊という戦法で天皇陛下万歳を叫びながら若い命を犠牲にしてきた。日本の新型コロナウイルスをめぐる対策も、まさにこのような日本独特の精神主義的な権力行使に囚われた、悪しき「日本的伝統」に沿ったやり方であった。
幸い感染者や死者は少なく抑えられたが、日本のコロナ対策それ自体が優れていたと考える人は少数だろう。日本で感染者や死者が少ないのは、対人生活習慣の違いや遺伝学的・免疫学的理由もあるようで、現段階では単純に評価はできない。また西洋に感染者・死者が多いのは、一見「合理的」に見える新自由主義というイデオロギーを採用していることにも理由がある。新自由主義により、ヒト、モノ、カネが規制を排して自由に往来していたことが、西洋諸国の初動を遅らせたのである。新自由主義は経済理論というよりも政治イデオロギーであり(日本のアベノミクスはその一変種)、このイデオロギーが崩壊しつつあることを今回のパンデミックが告げている。
「経済成長神話」からの脱却と外部不経済の考慮
コロナ対策は一つのリスク管理だが、この面における日本の遅れは著しい。東日本大震災における原発事故だけではない。昨年9月、ニューヨークの国連本部で開かれた気候変動に関する国際会議で、小泉進次郎環境大臣が不評であったことも記憶に新しい。この方面で日本は世界標準から一回りも二回りも遅れている。コロナ対策においてもPCR検査の面で世界のリスク管理の常識から見ると、ほとんど鎖国状態といってもいい。
なぜこんな国になってしまったのだろう。筆者は、この7年間のアベノミクスという経済効果のみを追う政策が、日本のリスク管理能力を著しく下げたと考えている。少しばかりのGDP押し上げにのみ目をやり、外からやってくる外部不経済に対して考慮する能力を削いでしまったのだ。
例えば、筆者が批判している「羽田新ルート」の問題がある。羽田空港の発着枠拡大のため、東京都心の上空を進入着陸のために使う新ルートである。新型コロナウイルスによる国家的非常事態にあっても、当初の計画通り3月29日から運用が始まり、4月3日には初飛行が行われた。世界中の飛行機が減便し、日本でも国際線が9割減便、国内線が5割減便という最中に、90デシベルの騒音と環境汚染物質をまき散らしながら、新型コロナウイルスで苦しむ直下の住民の生命と健康を脅かしているのである。
この「羽田新ルート」なる国策は、騒音や落下物の危険性、大気汚染、環境破壊などの負の経済効果が測りしれない。この負の経済効果は、国土交通省が発表している6500億円という経済波及効果よりはるかに多額になるという問題に冷静に向き合うべきである。その額は「外部不経済を考慮する社会的費用」の発想を導入すれば、ある意味で計算可能である。
これはまさに現下のコロナ対策においても見て取れる。コロナ対策では第1次補正予算が25・6兆円、第2次補正予算が31・9兆円に上るが、これ自体は完全に負の経済効果に対するものである。計算外の負の経済効果が、新自由主義経済政策の外からやって来たのである。この外部不経済は今日、多くの経済学者が意図的に無視しているものだが、パンデミックという狂気じみたグローバルな惨禍がわれわれを「正気」にさせてくれる。計算に入れようが入れまいが、この外部不経済は現に存在し、今われわれに多大な影響を与えているのである。これを無視することはできないのである。新型コロナウイルスだけではない。環境破壊は近い将来、より甚大な負の経済効果をもたらすだろう。われわれは今、「経済成長神話」という現代の新興宗教から解き放たれなくてはならない。
コロナ禍の中、民主主義を破壊する現政権
コロナ禍の中、現政権の性格をよく表した検察庁法改正案が国会で強行採決に持ち込まれそうになった。この動きは、現政権の民主主義破壊が頂点に達しているといえる。一方で法案自体は採決が見送られ、廃案も検討されている。ひさびさに国民世論の高まりを感じた。特にその中で、田中角栄元首相らを逮捕・起訴したロッキード事件(1976年)の捜査経験者ら14人の検察OBが、連名で同法案に反対する意見書を提出した。こんな事態は日本の戦後民主主義の中で極めて異例である。私の関心を引いたのはその意見書に記された次の驚くべき言葉であった。
本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
「羽田新ルート」批判といった、一見、ローカルな問題、地域住民の被害を扱う中で感じてきたことの深層が、まさにこの意見書の内容に合致した。問題の本質が、国家中枢の権力の危険な構造にあるからだ。「羽田新ルート」の場合は、法律改正や内閣による法律の解釈運用すらなく、無慈悲な航空法の運用、単なる国土交通大臣の「告示」行為にすぎない。いわば「さじ加減」だ。しかし、こんなことがどんなレベルであれ粛々と進行する国は、民主主義の破壊のみならず、人々の生命と健康を多大な危険にさらす全体主義国家ではないか。私は何度もそう訴えてきた。
「信頼できる」社会と公共性を重んじる政府を
これまでコロナ対策を含め、現政権について批判的に述べてきたが、しかしそれを支えているのが、回り回ってわれわれ国民であり、それが国民主権という政体が抱える最大の矛盾でもある。今、試されていることは、イデオロギー的に右でも左でも、「信頼できる」社会と公共性を重んじる政府をつくろうとする国民の意志である。
近年、日本の一般市民のライフスタイルは、江戸時代のそれとあまり変わらないのではないか、と思ってしまう。多くが農民であった当時、「百姓は生かさず、殺さず」「民は由らしむべし、知らしむべからず」であった。「生活が苦しい」と回答している人が厚生労働省の調査で6割近くになっても、黙々と長時間労働に甘んじて高い年貢(税金)を納め忍従している。情報公開を求めても廃棄されているか、真っ黒に塗りつぶされたものが出てくるだけ。百姓一揆(いっき)を起こす元気も削がれてしまう。
しかし、そうした中でも昨年12月に活動地のアフガニスタンでテロの犠牲となった中村哲氏や、NPO法人「抱樸(ほうぼく)」の奥田知志(ともし)牧師はじめ、人知れず弱者の隣人として寄り添っている人々は確かにおられる。こうした人々の生き方に勇気付けられつつ、和解の主イエスの地の塩・世の光の教えに忠実に生きる者として歩みを進めたい。
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