クリスチャントゥデイは2002年の創立以来、多くの皆様に支えられ、5月20日で満18周年を迎えることができました。これまで長きにわたり、ご愛読・ご支援いただき、誠にありがとうございます。創立18周年を記念して、今年は新型コロナウイルスが世界を席巻している状況を踏まえ、「100年に1度のパンデミック、教会は何を問われているのか?」をテーマに企画を用意いたしました。コロナサバイバー、牧師、神学校教師、大学教授、政治家、ホームレス支援者など、さまざまな立場の方から寄稿を頂きました。最終回となる第9回は、日本福音宣教会松山福音センターの万代栄嗣主任牧師による寄稿をお届けします。
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教会の多様性を浮き彫りにしたパンデミック
「多様性」という言葉は、20世紀以降から今に至る社会を表現する言葉というだけでなく、21世紀の教会の姿を描き出すキーワードになったのかもしれません。今般の新型コロナウイルス感染症の世界的な広がりは、その医学的・公衆衛生学的影響のみならず、経済の営みや市井の日常の在り方にまで大きな衝撃を与えていると同時に、教会を取り巻く環境にも多大な波紋をもたらしています。
「健康」や「いのち」に関わることであるからと、行政やマスコミの呼び掛けに積極的に応じて、人が集う礼拝などの集会や教会そのものの活動を休止し、「皆さんお元気で! 感染が終息し、状況が改善されたら、またお会いしましょう!」と、公共の集まりとして最も安全な方向性を選んだ教会もあれば、教会での礼拝の継続にある種の霊的使命や責務を感じて、周囲の人々からの批判に遭いつつも、教会として活動し続けることを選んだ教会もあったはずです。
それまでの比較的豊かで安定していた日本の社会の中で、一見、どの教会も同じように活動しているように見えていたかもしれません。キリスト教の教えを広めようとしても、昔のようには人は集まらず、少子高齢化の波をもろに浴びて苦戦する姿がそこかしこに見受けられました。時に、世界各地におけるクリスチャンの増加や、大きな教会の存在が話題とされる際には、「それに比べて、日本の教会は・・・」と総じて論じられることも多かったのです。
しかし、この度の新型コロナウイルス感染症との遭遇で、同じように見えていた日本の教会の中にも、特に「社会」との関わり方において、大きな多様性が存在しており、その違いの幅はかなり大きなもののように見え始めています。それぞれの教会の牧師や信徒たちが、それまでの日常的な活動では対処していけない状況に置かれることによって、それぞれに苦渋の決断や、前例のない決定をしなければならない場面となったのです。
キリストと文化
20世紀後半のポストモダンといわれた時代に、リチャード・ニーバーは『キリストと文化』(原題:Christ and Culture)を著し、キリスト教と社会の文化がどのように関わり得るのかについて、さまざまな型を提示しました。明らかに、一つの価値基準では把握し得ない、複雑に多様化した社会が現出しつつあったからです。
世界では大きなテーマとなったキリスト教と文化の関わりの問題ですが、日本ではそもそも教会やキリスト教世界があまりにも狭小なため、本格的な論議に深まり得なかったのではないか、と考えられます。クリスチャンも少なく、教会も小さかったためです。しかし、今回の新型コロナウイルス感染症の事態においては、その小さな教会の一つ一つが、そして数少ないクリスチャン一人一人が自身の判断を明確にして行動せざるを得ず、明確な信仰の基準を意識していたか否かにかかわらず、実際にどう行動したかにおいて、意識的、無意識的かはともかく、それぞれの決断を表明することになりました。
教会と社会の関係の仕方
一方で、教会が社会の中で、人々の幸せや社会の安寧に貢献することを中心課題としており、健全に社会の機能の一翼を担う存在として、そのために人々の精神的、霊的必要のために働くべきものであるなら、その社会の行政からの要請に応じて、まずは健康被害を最小限にとどめることを最優先として、当面の間、集まることを諦めることはいささかも奇異なことではありません。むしろ、そうすべき事柄でしょう。
しかし他方、教会が社会そのものに対して働き掛けるべき存在であることを標榜し、あわよくば社会や歴史の流れさえ変えられないかと希求しているのなら、スタンスの取り方は相当に違ってきます。キリスト教史をさかのぼれば、そもそも教会が社会的機能の中心を担っていた時期があり、その流れの中から、行政や医療などが分離・派生し、専門化していったことが指摘できます。そこで、今や主客が逆転し、教会は社会の付録であり、付加的な幸福感しか扱えない・・・と考えるのか、それとも今も、教会は教会として、罪の赦(ゆる)しと十字架の贖(あがな)い、永遠のいのちのメッセージを語り、特に日本の社会のように教会の存在感が希薄に見える状況においても、力強く語るべきメッセージを持っている、と考えるかの問題です。
それらとは別に、教会を高齢者や病弱者の集まることの多い集団と考えれば、保健衛生学的な要請を、礼拝などを実施する際に第一義的に取り扱わざるを得ず、前述の「社会性」の基準における論議は、後回しになる場合もあるでしょう。教会と社会の関係は、今般のパンデミックを通して、さまざまなパターンが存在し得ることが示されました。そして、実際にどの立場を取るかについて、決断を留保する間も与えられず、各教団や教会、牧師、信徒たちがどこまで自覚的にその選択の持つ意味を理解していたかは別として、何らかの意思を表明したのだと思います。
教会の多様性と社会的使命
これらのことを考え併せれば、今後、私たちが「教会」と口にするとき、ボンヤリとした曖昧なままの教会観ではなく、現代の多様性の中で、どういった教会を想定しているのか、より明確な理解を求められていくでしょう。牧師たちが、今後の宣教や牧会を考えるときも、多様性と幅のある教会観から、どういった教会像を選択しているかが問われることになります。
伝統ある教会を継続させていく場合も、新たに教会を開拓伝道から建て上げようとする場合も、家庭礼拝や家の教会を構築していくことにおいても、現代の潮流の中にいる若者たちを集めてその集まりを「教会」と呼ぶにしても、はたまたインターネット上でのつながりを「教会」と定義するようになるとしても、いずれにしてもその教会と社会の関わり方を論じないわけにはいかなくなるでしょう。多様性のある現代の教会の中で、どういう位置付けのものであり、社会との関係の中で何を責務、使命として背負っているのかが問われることになります。
ちなみに・・・
私のケースは・・・ですか? やはり、主イエス・キリストと弟子たちの時代から、将来の再臨と世の終わりまでの流れの中で、戦争でも飢饉(ききん)でも迫害においても、教会が礼拝を「やめる」ことは大前提として想定されていないだろうと、シンプルに思いました。そこで、私が牧師を務める群れの本部教会(松山市)においては、この「緊急事態宣言」下においても、日曜日の3回の礼拝と夕拝、水曜日と木曜日の祈祷会をはじめとして、毎日の早天祈祷会や昼の祈りの時間など、すべての集会を継続しました。もちろん、信徒への出席を強要することはなく、出席人数はかなり減りましたが、「たとえ牧師一人になっても礼拝がなくなることはありません!」と宣言して、毎回の集会を行っていました。もちろん、消毒や換気などの感染防止の手立ては最大限講じながらのことです。
ただし、東京や福岡、神戸などでの集まりに関しては、「特定警戒都道府県」という感染拡大地であり、会場を借りられるかどうかという問題もありましたので、各集会は中止しましたが、インターネットでのオンライン集会を即座に展開し始め、この「緊急事態宣言」下においては、通常以上の集会数をオンラインで実施し、普段以上の頻度で信徒の方々と関わりを持ち、教会としての機能がいささかも減じることがないように努めてきました。
その意図を問われれば、「もともと教会から派生したものもある行政や警察、病院、消防などが『緊急事態宣言』下でもその仕事を休むわけがなく、むしろ『緊急事態』だからこそ動かなければならないときに、教会が活動をやめる必要はないのではありませんか。スーパーやレストラン、銭湯などもまだ営業している段階で、教会がその扉を閉ざす状況にはないと思います。『肉の糧でなく霊の糧を』と言ってきたのなら、今こそ、その霊の糧が届けられなければならないと思います」とシンプルに説明してきました。行政からの要請が一番厳しかったはずの東京でも、教会はその他の宗教施設と併せて「休業要請対象外」であったはずですが、ある情報によれば、神社や寺、新興宗教の施設などとの比較で、キリスト教会の「休業率」が断トツで高かったそうです。多様性は多様性で良いのですが、それはそれでどう考えれば良いのか、複雑な思いが私の中にはあります。
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