中国のことわざに、「死せる孔明、生ける仲達を走らす(死諸葛走生仲達)」というものがあります。死んだ孔明を、敵国の軍師であった仲達がまだ生きていると思い、孔明の策を警戒して退却したという話です。このように偉大な人は、死に際しても人々に影響力を与えるものですが、神の子であるキリストの死を間近に体験した人々は、その人生が根底から変えられました。今日はそれらの人々のうちの一人、バラバに注目してみたいと思います。この物語も、過ぎ越しの祭りと深い関係のある話です。
バラバ
当時、イエス様と弟子たちが住んでいたイスラエルという国は、ローマという大きな国に支配されている小国でした。そのため、人々は一生懸命働いても、ローマに多くの税金を徴収される苦しい生活を送っていました。そして彼らは、いつしか神が救い主を送ってくださることを待望していました。なぜなら聖書の中には、国の窮地を救うような英雄たちが多く描かれているからです。サムソン、ギデオン、ダビデといわれる勇者たちは、武力によってイスラエルを周りの敵国から解放してきたのです。
そんな中、2人のイエスが聖書の中に登場します。一人は私たちのよく知っているキリスト・イエスです。群衆は彼をホザナ、ホザナと迎え、彼が自分たちを救ってくださることを期待しました。ところが、イエス様は互いに愛し合うことを説いたり、天国のことを語ってくれたりはしましたが、剣を持って支配者であるローマに立ち向かおうとはされませんでした。そんなイエス様に群衆は失望し、パリサイ人や祭司長たちは嫉妬しました。その結果、人々はイエスを捕らえ、逆にローマの法廷で、彼を死刑にするように訴えたのです。
一方、イエス様が捕まる少し前、バラバと呼ばれる人がローマに対して剣を取って立ち上がり、暴動を起こしました。このように書かれています。
そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。(マタイ27:16)
実は日本語の聖書では単にバラバとなっていますが、英語の聖書ではここが Jesus Barabbas(バラバ・イエス)となっています。つまり2人のイエスが同時期に、捕らえられていたのです。
しかし、多くの聖書の写本が、バラバ・イエスという名前を単にバラバとしています。それは、囚人バラバが救い主であるイエス様と同じ名前を持っていたことに違和感を感じたからかもしれません。このことについては、また後に触れます。
総督ピラトの葛藤
ところでこの時期、すなわち過ぎ越しの祭りの時には、ピラトは群衆のために毎年一人の人を釈放してあげていました(ヨハネ18:39)。なぜローマの総督ピラトが、ユダヤ人の祭りの時に、彼らの望む人を釈放してあげていたのでしょうか。それは群衆の機嫌を取るためでした。ローマの総督というと、絶対的な権威を持っているように思いがちですが、彼は群衆が暴動を起こさないように、なだめながら統治していたのです。
ですから、ピラトがイエス様に対して「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか」と言ったとき、イエス様はこう答えられました。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません」(ヨハネ19:11)
ところで結果的には、ピラトのこの慣例は、過ぎ越しの祭りの時期にふさわしいものでした。「過ぎ越し」とは「解放」の時であり、その昔イスラエル人がエジプトから解放されたことを記念する祭りだったからです。私は、この事柄の背後に、歴史を超越してすべてを計画される主の摂理を感じます。
さて、2人のイエスは捕まってしまったのですが、ローマの支配者ピラトは人々がねたみからイエスを引き渡したのであり、彼に罪がないということに気付き、赦(ゆる)そうとしました(マタイ27:18)。そしてピラトは、群衆に対して、このように問い掛けました。
あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。(マタイ27:17)
この時に、バラバの名前からイエスを取り除いてしまうと、当時の激しい緊迫した言葉の語感や臨場感が損なわれてしまいます。単に「バラバかイエスか?」と問うのと、「バラバ・イエスかキリスト・イエスか?」と問うのでは、語感がずいぶん変わります。ですから、聖書は人が恣意的に加減すべきではないのです。
さて、このように群衆に聞いたとき、ピラトの考えでは、当然人々はキリスト・イエスを解放するように願うと思っていました。なぜならもう一人のバラバは「人殺し」であったからです。しかし人々の反応は、ピラトの思惑に反したものでした。
しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。(マタイ27:21〜23)
恩赦
結果、バラバ・イエスは解放され、キリスト・イエスは十字架で殺されるために、引き渡されていきました。バラバ・イエスはキリスト・イエスの犠牲によって、命を救われることになったわけです。
この当時、バラバ・イエスが釈放される可能性は「0%」でした。ただの暴徒や人殺しであったなら、彼にも赦される余地があったかもしれません。しかし彼はローマに反逆した者だったのです。ですから、ピラトが彼を恩赦することは、普通であれば絶対にあり得ないことなのです。
ある人たちは、バラバはギデオンのように、武力によってイスラエルをローマの属国から解放しようとした気骨のあるやつじゃないかと評価するかもしれません。しかしギデオンとバラバの間には決定的な違いがあります。ギデオンは神に召されて戦いましたが、バラバは神から遣わされてもいないのに、自分の考えで暴動を起こし、人を殺したからです。イエス様も、自分の判断で剣を使って事を解決しようとした弟子を、このようにいさめられました。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイの福音書26:52)
しかし結果的には、キリスト・イエスの犠牲により、バラバ・イエスは釈放されて救われました。ピラトが言っているようにイエス様は何の罪も犯していないので、しようと思えば自分の無実を証明することもできたはずです。しかし彼は一言も自分を弁明しようとはされませんでした。
そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。(マタイ27:13、14)
Who is バラバ・イエス?
さてこの物語を聞いて皆様はどう感じられたでしょうか?「群衆は、無責任だな」「ピラトは何一つ自分で決められない情けないヤツだな」「バラバは運が良かったね」などと思われるかもしれません。しかし、このストーリーを、遠い昔の他人の話だとして聞いてしまうと、あまり意味がありません。
私たちは、自分もピラトと同じように、人の意見に流されやすい者であり、自分の人生を自分で決めているようで、実際にはそうでないことを知らなければなりません。私たちの心の内には無意識の恐怖や不安があって、それによって真っすぐに歩めなかったり、判断を誤ってしまうことが多いのです。また、当時のその場にいたら、自分も他の人々と同じように、「十字架につけろ」と叫んでいたかもしれないなということを私たちは認めなければいけません。主を十字架につけたのは、昔の誰かではなくて、私たち一人一人だということです。
そして何より、聖書がこの箇所で描いているバラバ・イエスとは、自分のことであるという悟りが必要です。バラバは万に一つも、赦されたり解放されたりする可能性のなかった囚人でした。しかしキリスト・イエスが死ぬことにより、彼は突然赦免されました。彼は自分からは何もしていません。ただキリスト・イエスの犠牲により、一方的にそして無条件に赦されたのです。これはまさに私たちのことではありませんか。ローマ書にこのように書かれています。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:23、24)
先ほども言いましたが、イエス様はしようと思えば幾らでもご自身を弁明することができたでしょう。しかし彼は沈黙を守ることを通して、絶対に恩赦されるはずのない囚人バラバ・イエスを解放され、そして罪の奴隷であった私たちをも解放してくださったのです。
父の子
調べたところ、「バラバ」とは、バル・アバという2つの単語から成っているそうです。「バル」とはアラム語の「子」という意味であり、「アバ」とは「父」という意味です。つまりバラバとは「父の子」という意味だそうです。神様がバラバという人物を、適当に選んだとは考えられません。彼はキリストの十字架の犠牲によって救われ、父なる神の子として赦される全人類のモデルとなったのです。
その後、彼がどうなったかは聖書には書かれていませんが、伝承によると彼は信仰に目覚め、最後には自分のために死なれた主の十字架の福音を伝えるために殉教したといわれています。そのことをペール・ラーゲルクヴィスト(Pär Fabian Lagerkvist)という作家が小説として描き、1951年にノーベル文学賞を受賞しました。それはその後、映画化までされたそうです。
彼の生涯が実際にはどうであったのか、それは伝承によるところなので、確かではありません。しかし確かなことは、私たち一人一人が、バラバ・イエスと同様に救われる可能性のない罪人であったということ、そして主の十字架の犠牲によって救われて、今は「父の子」として赦されて愛されているという事実です。4月5日から、イエス様の十字架の苦難を覚える、受難週が始まります。キリスト・イエスの十字架の苦しみと、それを通して示された神の愛を今一度心に刻みましょう。
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