日本のアニメーションを見ていると、此岸(現世)と彼岸(あの世)の境界線があやふやなものが少なくありません。例えば有名なジブリ作品の中で「紅の豚」という作品がありますが、過去に亡くなったパイロットたちが雲のように描かれているのが印象的でした。また押井守監督の原点ともいうべき「天使の卵」という作品は、最初から最後まで、登場人物が生きているのか死んでいるのかさえも定かではありません。このような作品を作った監督やプロデューサーたちの対談などを聞いていると、このような話がありました。
「人は60歳を過ぎて、自分の死や彼岸を意識しない人はいない」
確かにそうだろうなと思いました。自分自身も少し前に30代になったと思ったばかりですが、あっという間に40歳を過ぎてしまいましたし、最近は時の流れがとても早く感じられます。このように、若い人も高齢の方も、人は必ず皆ひとしく死を迎えます。それは皆が知っていることです。しかしそれとは別に、もう一つ聖書が語っている「死」があります。
創世記
神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16、17)
有名な箇所ですが、神様は最初の人アダムを造られた後、善悪の知識の木をエデンの園の中央に生えさせられました。そして「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われました。結果はどうなったでしょうか。ご存じだと思いますが、人はその実を食べてしまったのです。そして人は確かに死ぬ存在となりました。しかし、「その時」死ぬということは、すぐには起こりませんでした。アダムは900年以上生きましたし、その後の人々も長く生きました。これはどういうことでしょうか?
ある人たちは、それは将来的に死ぬことが定められたという意味だと理解します。英語でもNIV訳は「you will certainly die」と未来形になっています。しかし日本語の訳では、「取って食べるその時」となっていますし、英語の他の訳でも「in the day」(KJV訳)とか「when you eat」(ESV:Footnote)というように、「その日」もしくは「その時」となっています。そして、ヘブル語の原語に忠実なのは後者であり、未来形にしたNIV訳は、アダムがその日に死ななかったことと整合性をつけるために、原語にはない「will」という語を意図的に加えた意訳だといえます。では、聖書の原語どおりだとしたら、人は確かに、食べたその時(日)に死んだということになります。それは、どういうことでしょうか?
アダムの肉体はその後も長らく生きていましたから、これは肉体の死ではなく、霊的な死を意味していることになります。善悪の知識の実を食べる以前のアダムは、神様と深い親密な愛の関係にありました。また妻とも、一心同体の関係にあり、互いに裸であっても恥ずかしいと感じませんでした。しかし神の言葉に反して善悪の知識の実を食べたアダムは、神との間に断絶が生じ、人との関係においても壁が出来てしまいました。これこそが霊的な死なのです。
つまり私たちは、何十年か後に死を迎えるだけではなく、もともと死んでいる(もしくは眠っている)存在だというのです。このことを知ることは大切なことです。それは、自分のうちにいのちがないことを悟った者だけが、「いのち」を求めるからです。自分が病気であることを知っている者だけが、医者を求めるように、自分が死んでいる者であるということを知った者だけが、「いのち」を求めます。神様がいなくても、自分は生きていると思う者は、いのちを与える方である神様のもとへ来ないのです。
皮の衣
さて、神様は人に「死」を宣告されましたが、同時に少し不思議なことをされました。もう少し創世記を読んでみましょう。
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3:21)
彼らはこの時すでに「いちじくの葉」をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作っていました(創世記3:7)。その彼らに、あえて皮の衣を作り、着せてくださったということは、そこに何らかの意味があるはずです。
それは、動物の犠牲により、人の罪を覆うということが予見されているかのようです。神様は罪を犯した人に「死」を宣告して終わられたのではなく、彼らに希望を与えられたのです。そして、モーセの時代になると、より具体的に、子羊の血の犠牲により、罪を過ぎ越すことが約束されました。
そしてついに神の子キリスト・イエスが遣わされ、その血の犠牲により、私たちの罪がゆるされ、死んでいた私たちに再び「いのち」が与えられました。今は過ぎ越しの祭りの前の、受難節(レント)の期間ですので、私は毎週のようにキリストの十字架の贖(あがな)いについて書いていますが、そのことを読むたびに皆様はどう感じられるでしょうか。それが非常に大きな神様の恵みであることは分かっても、聞くたびごとに涙を流すということはないかもしれません。私たちは恵みに慣れてしまう者だからです。
例えば、私たちが大きなダイヤモンドを誰かにもらったとしたら、最初はすごく感動するでしょうが、その後だんだんとその感激は薄れていき、タンスにしまい、次第に持っていることすら忘れてしまうかもしれません。しかし、もしもそれを無くしてしまうようなことがあったら、その大きな価値を思い出して、悲しみ、落胆するでしょう。普段、気にかけていないのであれば、無くなっても同じことのように思いますが、何としてでも探し出そうとするでしょう。同様に、キリストが私たちに下さるいのちは、絶対に失ってはならない大切なものなのです。
先ほども言いましたが、自分にいのちがあると思う人は、キリストの十字架の話を聞いても、「ふーん」としか思わないでしょう。しかし自分の内にいのちがないことを知っている者は、キリスト・イエスから目を離さない者となるのです。
サルデス教会への言葉
さて私は以前、黙示録の7つの教会のメッセージをしたことがあるのですが、今日はサルデス教会への御言葉を読んでみましょう。
また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。(ヨハネの黙示録3:1、2)
今まで確認してきたように、自分が霊的に死んでいることを知らない人は多くいます。しかし、これはサルデス教会への言葉です。すなわち、未信者への言葉ではなくて、信仰を持っているキリスト者への言葉です。
「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」
私たちはこの言葉を、重く受け止めなければなりません。確かにキリストの犠牲の故に、死んでいた私たちの霊魂は生かされました。しかしその私たちに対して聖書は、再び警告を与えています。
「目をさましなさい」と聖書は語っています。私は仕事をしているときでも、午後になると眠くなることが多いのですが、以前テレフォンオペレーターの仕事をしていたとき、お客さんの電話番号を聞いたところで眠ってしまい、数秒後に「はっ」としてもう一度聞き返すということがありました。(その時は「ご確認のため、もう一度お願いします」と言って、事なきを得たのですが・・・)
私たちも信仰に立っているつもりでも、いつの間にか、信仰がない人と同じように眠ってしまっているということがないでしょうか? 聖書は私たちが「死にかけている」とも警告をしています。
今年の過ぎ越しの祭りは4月8日から始まりますが、すぐ後の12日は復活祭「イースター」です。キリストは過ぎ越しの子羊として死んで、その3日目に復活されましたから、過ぎ越しの祭りの時期は、復活祭の時期でもあるのです。死がなければ復活はないわけですから、死と復活は一対なのです。
そして復活されたキリストは、さらに再びこの地に来られると約束されました。そしてその日がいつであるかは誰も知りません。ですから私たちはその日が来るまで、眠ってしまうことなく、キリストが血を流し与えてくださった霊的な「いのち」を保つ者となりましょう。
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