前回、南ユダ13代目の王であるヒゼキヤ王が、長い間の沈黙を経て「主の祭り」を回復したことについて、共に聖書を確認しました。ヒゼキヤは自分たちの国(南ユダ)だけでなく、かつての同胞と共に「主の祭り」をすることを願って、使者たちを北イスラエルへ送りました。残念ながら、多くの人々はあざ笑い、受け入れませんでしたが、そのような中でも南ユダ王国の全集団と、北イスラエルの一部の祭りに参加した人々は、主の恵みと臨在を経験し、喜びをもって7日間の祭りを行いました。
そして、さらにその後、彼らは「あと7日間祭りを行うこと」を決議しました。それほどまでに、彼らの心は喜びに満たされていたのです。祭りの後も人々は感謝に満ちて、非常に多くのささげものを主の前に携えて来ました。そしてヒゼキヤ王は、それらを独占することなく、祭司たちやレビ人たちに公平に分け与えました。聖書はヒゼキヤ王の功績をこのように評価しています。
ヒゼキヤはユダ全国にこのように行い、その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行った。彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行い、その目的を果たした。(2歴代誌31:20、21)
アッシリヤの侵攻
このように、南ユダ王国の人々の信仰は「主の祭り」によって完全に回復しました。しかし、そんな南ユダ王国とヒゼキヤ王に、試練が訪れます。当時の超大国であったアッシリヤが攻めて来たのです。この時、既に北イスラエルはアッシリヤによって攻め滅ぼされておりましたが、アッシリヤの王はさらに南ユダにも侵攻して来たのです。
これらの誠実なことが示されて後、アッシリヤの王セナケリブが来て、ユダに入り、城壁のある町々に対して陣を敷いた。そこに攻め入ろうと思ったのである。(2歴代誌32:1)
当時の国力の差は、誰の目にも明らかでした。アッシリヤの王は非常に多くの軍隊を引き連れて、エルサレムに迫って来ていました。一方のイスラエルは南と北に分裂し、北は既に滅ぼされ、南ユダだけが残っているような状態でした。しかし、ヒゼキヤ王はそのような中でも信仰をもって立ち上がりました。
それから、彼(ヒゼキヤ)は奮い立って、くずれていた城壁を全部建て直し、さらに、やぐらを上に上げ、外側にもう一つの城壁を築き、ダビデの町ミロを強固にした。そのうえ、彼は大量の投げ槍と盾を作った。彼は、民の上に戦時の隊長たちを立て、彼らを町の門の広場に召集し、彼らに励ましのことばを与えて言った。(2歴代誌32:5、6)
彼はまず、自分たちでできることはすべてしました。城壁を全部建て直し、武器を準備したのです。そして、その上で彼は、主により頼みました。このように書かれています。
「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。(2歴代誌32:7、8)
ヒゼキヤ王は、敵であるアッシリヤがどんなに強大な国であっても、彼らの力は「肉の腕であり」自分たちと共にいる主が敵と共にいる者よりも「大いなる方」であるという信仰を持っていました。そしてこの時のユダの人々は、主の祭りを終えて信仰が高められていましたので、ヒゼキヤ王の言葉によって勇気を与えられ、奮い立つことができたのです。
一方、アッシリヤの王セナケリブは部下に手紙を渡して、イスラエルの神とヒゼキヤ王をそしり、彼らを恐れさせ、おじけさせて、町を取ろうとしました。彼らは、力で攻めるよりも、言葉によって相手の心を折ることの方が効果的であることを知っていたのです。これが彼の言葉です。
おまえたちは、私と私の先祖たちが地のすべての国々の民に対して、何をしてきたかを知らないのか。地の国々の神々が彼らの国を私の手から救い出すことができたか。私の先祖たちが聖絶したこれらの国々の神々のうち、どの神が私の手からその民を救い出すことができたか。おまえたちの神が私の手からおまえたちを救い出すことができるというのか。今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じてはならない。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手から、私の先祖たちの手から救い出すことはできない。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」(2歴代誌32:13〜15)
預言者イザヤ
確かに他の国々の神々は、その民をアッシリヤの王から救い出すことができませんでした。セナケリブは他の多くの国々を、その神々と共に滅ぼしてきたので、ユダ王国と「主」に対しても、同様にできると考えたのです。しかし、ヒゼキヤ王の心は折れませんでした。彼は何も言い返さず、預言者と共に主に祈りをささげました。
そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。(2歴代誌32:20)
ヒゼキヤ王は、アモツの子預言者イザヤと共に祈りをささげたとあります。私たちはここに、ヒゼキヤ王の心の強さ、そして信仰の秘密を知ることができます。ヒゼキヤ王は、25歳という若さで南ユダ王国の王となり、私たちが確認してきたように、その治世の第一年の、第一の月に主の宮をきよめ、長い間無視されてきた「主の祭り」を回復させました。このような彼の信仰を見るときに、私たちは普通、「ああ、きっと親の影響だろうな」と思います。親が主への信仰を大切にする者であったので、ヒゼキヤ王も主に対して熱心だったのだろうなということです。しかし実際は、父であるアハズ王は、王たちの中でも指折りの悪い王でした。聖書を確認してみましょう。
アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、主の目にかなうことを行わず、イスラエルの王たちの道に歩み、そのうえ、バアルのために鋳物の像を造った。・・・彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえをささげて言った。「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に私もいけにえをささげよう。そうすれば私を助けてくれるだろう。」この神々が彼を、また全イスラエルをつまずかせるものとなった。(2歴代誌28:1、2、23)
アハズ王は主への信仰を捨て、バアルに仕え、ダマスコの神々に礼拝と祈りをささげる者であり、全イスラエルをつまずかせる者でした。ですからヒゼキヤ王の信仰は、親ゆずりのものではありませんでした。ヒゼキヤ王の信仰は、旧約時代の預言者たちの中でも、特別な存在であるアモツの子イザヤによったのです。主の霊に満たされていた預言者イザヤが、ヒゼキヤの幼いときから共にいたので、父親が偶像崇拝をする者であったのにもかかわらず、ヒゼキヤは王になった最初の年に、主の祭りを回復することができたのです。
私たちの信仰も同様です。私たちは自ら信仰を持ったと思うかもしれませんが、そうではありません。私たちは、多くの先達の信仰者の祈りに支えられて、信仰を持ったのであり、彼らは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石なのです(エペソ2:20)。では、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤの祈りに対して、主はどのように答えられたでしょうか。
主の勝利
すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮に入ったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。こうして、主は、アッシリヤの王セナケリブの手、および、すべての者の手から、ヒゼキヤとエルサレムの住民とを救い、四方から彼らを守り導かれた。(2歴代誌32:21、22)
なんと主はヒゼキヤと預言者イザヤの祈り、そして民の信仰に答え、アッシリヤを全滅させられました。そして絶対的な力を誇り、イスラエルの主をそしったアッシリヤの王セナケリブは、悲惨な最期を迎えました。自分の身から出た子どもたちによって殺されてしまったのです。自分の子どもに殺されるほどの悲劇があるでしょうか。しかも多くの子どものうち、たまたま変わった子がいて、その子に殺されたのではなく、「子どもたち(複数)」に殺されたというのです。これが神をそしり、自分の「肉の腕」に頼ったセナケリブの最期でした。反対に、目に見える状況にはよらず、最後まで主に頼ったヒゼキヤ王は、最終的にすべての国々から尊敬されるようになります。
多くの人々が主への贈り物を携え、ユダの王ヒゼキヤに贈るえりすぐりの品々を持って、エルサレムに来るようになり、この時以来、彼はすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。(2歴代誌32:23)
私たちの戦い
私が今日の話の中で注目したい点は、「これらの誠実なことが示されて後、アッシリヤの王セナケリブが来て」(2歴代誌32:1)という箇所です。何度も言いますが、ヒゼキヤ王とユダの人々は、数百年もの間途絶えていた「主の祭り」を回復しました。そして彼らは、「その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行った」のです。だからこそ彼らは、その後に訪れた大きな危機に対して、大胆に信仰によって立ち向かうことができたのです。私たちの人生においても、いつ大きな危機が訪れるか分かりません。私たちは、その時になって「困ったときの神頼み」のように主を求めるのではなく、平素から心を尽くして主を礼拝する者となりましょう。
ところで、「人間同士の争いに主が介入し、御使いによって敵を全滅させるというのは、ちょっとやり過ぎではないか」と思われる方もいらっしゃると思います。しかし、聖書における戦いの多くは、霊的な内面の戦いの本質を読者が悟るために書かれているのだという観点を持っていただきたいと思います。
セナケリブは神を神とも思わず、「肉の腕」に頼り、自分の力によって国々を征服していきました。これは肉に属する私たちの「古き人」の罪や欲求を象徴しています(コロサイ3:9)。一方、ヒゼキヤ王および、預言者イザヤとユダの人々は信仰によって、セナケリブに立ち向かいました。これは主を慕い求める私たちの霊的な自己「新しい人・内なる人」の型です。
「古き人」セナケリブの力は強大です。私たちは自分の決意とか、意志の力によっては、「古き人」の欲に勝利することができません。私たちが何度悔い改めても、同じ罪を犯してしまうのはそのためです。しかし、ヒゼキヤ王やユダの人々のように、主への祭り(礼拝)を第一にする者は、主から力を得て、セナケリブに勝利することができるのです。
少し見方を変えると、アッシリヤの王セナケリブが攻めてくることを事前に知っておられた主が、預言者イザヤを遣わし、王と民を整えて、主の祭りを回復させてくださり、彼らの信仰を回復させ、セナケリブから守られたのだということに気付きます。つまり、これは主の先行的恩寵の物語なのです。そして、私たちも同じ主の恩寵の中に招かれています。喜びをもって主の祭り(礼拝)に参与する者となりましょう。たとえ今まで、「古き人(セナケリブ)」に敗北してきたとしても、主は一方的な恵みによって私たちを造り変え、勝利を与えてくださるのです。
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