あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。(申命記16:16)
前回は全知全能の神が、その知恵と愛をもってイスラエルの人々に、年に3度祭りをすることを定められたということ、その祭りはすべて収穫(ハーベスト)の時であったということを、私たちは一緒に確認しました。収穫の祭りというのは、イスラエルの民が主によって祝福され、豊かな大地の収穫を得ることができたことを主に感謝するときです。そして新約の私たちは、その収穫が魂の救いのことであることを知って、救い主に感謝の礼拝をささげます。
ところが、神を認めない人々は、自分たちの働きによって生じた地の産物は、自分たちの労働の対価であり、すべて自分のものだと思います。「神はいない」と思っているわけですから、当然のこと、自分で働いた成果はすべて自分のものだと思います。
悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。悪者は高慢を顔に表して、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない」の一言に尽きる。(詩篇10:3、4)
神を信じない人は、当然のこと、主の祭りには集いませんし、主に感謝をささげることもしません。実は「主の祭り」もソロモン王の時代以降、長い間行われませんでした。その長い沈黙を破って、再び主の祭りを回復させたのは、南ユダ13代目の王であるヒゼキヤ王です。彼に対して、聖書はこのように評価しています。
■ ヒゼキヤ王
彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(2列王記18:5)
ヒゼキヤはユダの王たちの誰よりも主に信頼していた王様でした。彼は主の祭りを回復することを願いましたが、その前にしなければならないことがありました。彼以前の時代、主の祭りが行われていなかっただけではなく、主の宮は異教の偶像で満ちていました。ですから、彼はまずそれらを運び出し、捨てるように命じなければなりませんでした。
彼らに言った。「レビ人たち。聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい。あなたがたの父祖の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを出してしまいなさい。・・・祭司たちが主の宮の中に入って、これをきよめ、主の本堂にあった汚れたものをみな、主の宮の庭に出すと、レビ人が受け取って外に持ち出し、キデロン川へ持って行った。彼らは第一の月の一日に聖別し始めた。その月の八日に主の玄関に入り、八日間にわたって主の宮を聖別した。第一の月の十六日に終わった。(2歴代誌29:5、16、17)
本来、第一の月というのは、主がイスラエルをエジプトから贖(あがな)い出した月であり、それを覚えて新年とし、「種を入れないパンの祭り」をするときでした。しかし、主の宮が偶像で満ちていたため、彼らは第一の月に主への祭りをすることができませんでした。彼らは、まず自分自身を聖別し、主の宮の中にある偶像を、外に持ち出しキデロン川で打ち壊し、焼いてしまわなければなりませんでした。
私たちも、主の祭り(礼拝)に参与することを願っていますが、そのためには宮をきよめなければなりません。宮とは皆様ご自身のことです(1コリント6:19)。ですから私たちは、聖なる主の御前に出るために、悔い改めの祈りをし、自分の心の内にある、罪や偶像や汚れを追い出すのです。今まで何度も悔い改めの祈りをし、また同じ罪を繰り返してしまっているという方もいるかもしれません。それでも私たちは勇気をもって、再度悔い改め、主に新しい心を与えてくださるように願いましょう。主は喜んで、悔い改める者の罪を赦(ゆる)し、雪のように白くし(イザヤ1:18)、そして悔い改める者の礼拝を受けてくださいます。
■ 第二の月の祭り
さて主の宮をきよめ終わったヒゼキヤとエルサレムの人々は、第二の月に主の祭りをすることを決議します。続きを読んでみましょう。
王とそのつかさたちとエルサレムの全集団は、第二の月に過越のいけにえをささげようと決議した。というのは、身を聖別した祭司たちは十分な数に達しておらず、民もエルサレムに集まっていなかったので、そのときには、ささげることができなかったからである。(2歴代誌30:2、3)
この箇所では、「過越のいけにえ」と表現されていますが、これは「種なしパンの祭り」と同じ祭りのことです。そして、前回確認した通り、この祭りは第一の月にするように定められていました。しかし、その準備が十分でなかったので、彼らは第二の月に過ぎ越しの生贄をささげることを決議したのです。このことに関しては、民数記に興味深いストーリーがあります。
それはヒゼキヤたちの時代のはるか昔、モーセの時代の話です。やむを得ない事情で、第一の月に祭りに参加できなかった人たちがモーセに対し、「なぜ自分たちは主へのささげ物をささげることができないのか」と訴えたことがありました。それに対して主はモーセにこう語られました。
「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人は主に過越のいけにえをささげなければならない。第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜といっしょにそれを食べなければならない。(民数記9:10、11)
私たちは、ここに主の愛と配慮を感じることができます。主は第一の月を新年とし、大切な祭りの時期として定められました。しかし、どうしてもの事情があり第一の月に祭りをできない場合、主は人々の想いを無下(むげ)にはされず、第二の月に行うことを認めてくださったのです。
■ 宣教の言葉(ケリュグマ)
さてユダの王ヒゼキヤ王は、ユダ王国だけで主への祭りをするのではなく、北イスラエルの同族とも共にしたいと願いました。
さて、ヒゼキヤは全イスラエルとユダに使いを遣わし、またエフライムとマナセに手紙を書いて、エルサレムにある主の宮に来て、イスラエルの神、主に過越のいけにえをささげるよう呼びかけた。(2歴代誌30:1)
具体的には、ヒゼキヤ王は近衛兵を遣わし、全イスラエルとユダを巡らせ、一緒に主への祭りをするように民に呼び掛けました。
そこで、近衛兵は、王とそのつかさたちの手紙を携えて、イスラエルとユダの全土を行き巡り、王の命令のとおりに言った。「イスラエルの人たちよ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、あなたがたに残された、アッシリヤの王たちの手をのがれた者たちのところに、帰って来てくださいます。(2歴代誌30:6)
ユダの王の使節が、同族である北イスラエルに対して、共に主の祭りをしようと呼び掛けることは、普通のことのように思うかもしれませんが、これはヒゼキヤ王の愛と信仰がなければ決して行われないことでした。なぜなら北イスラエルと南ユダは、ダビデソロモンの時代以降、長い間、別々の国として歩んできたからです。時に他国と同盟を組んで、お互いに攻め合うということもありました。そしてヒゼキヤ王の時代、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、多くの民がアッシリヤに捕囚にされていました。まさに北イスラエルは国家存亡の時期だったのです。
そのような彼らに対するヒゼキヤ王の言葉は、新約時代における宣教の言葉(ケリュグマ)のようです。主の心を自分の心として、彼は滅亡寸前の同族が主に立ち返り、共に主の祭りをすることを願ったのです。彼は愛と憐れみの心によって人々にこのように語り掛けました。
あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(2歴代誌30:9)
さてこのヒゼキヤ王の言葉を聞いた人々の反応はどうだったでしょうか? 長くなってしまいますので、次回続きを書かせていただきます。今日のヒゼキヤ王の物語の中で、私たちは多くのことを学ぶことができたと思います。
■ おわりに
私たちは、長い時代の間イスラエルの人々が豊かな収穫を与えてくださる主への祭りを行ってこず、主の宮が偶像と汚れた物に満ちていたという事実を知りました。私たち人間は弱いものですので、主の下さる恵みに感謝するよりも、自分の能力や働きを誇り、主の祭りを喜ぶことよりも、世が与える快楽を求めてしまうものです。しかしそのような中でも、主は必ず主に立ち返る者を起こされます。彼らは、世の与える喜びは一時的でむなしく、主の中にのみ真の喜びがあることを知るのです。主に立ち返る者たちは、自分が神の宮であることを知って、悔い改めの祈りをささげ、自分の内の罪、汚れ、偶像を主によってきよめていただき、そして霊とまことによる礼拝を回復させます。
そして主は、ご自身のもとに立ち返る者たちを決して見捨てません。第一の月は、イスラエルの民が奴隷から解放されたことを記念する新年であり、大地の収穫祭であり、主が大切な祭りの時として定めてくださった月です。しかし、定められた第一の月に祭りを行うことができなかった場合、主は第二の月を用意してくださり、主に立ち返る者たちを子として受け入れてくださるのです。私たちは聖書を通して、父なる神の心を知ります。ところが、聖書は文字で書かれていますから、時に神の言葉は冷たくて融通の利かない裁きの言葉のように受け止められてしまうことがあります。しかし、よくよく読んでみると、律法(トーラー)の言葉の中にさえ、父の愛と配慮を読み取ることができるのです。
ところで、確かに主は忍耐深く、情け深く、あわれみ深く、何度でも私たちに、主に立ち返る機会(第二の月)を与えてくださいます。しかしそれがいつまでも続くわけではありません。恵みの日であり、救いの日である「今」、悔い改めて主へのまことの礼拝を回復し、ヒゼキヤ王のように主の心を自分の心として、周りの人々にも共に主の祭り(礼拝)に参与するように愛をもって呼び掛ける者となりましょう。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント6:2)
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。(同6:1)
※私は聖書を学ぶに当たって、自ら何度も何度も聖書を読むとともに、国内外の多くの先生方から教えを受けてきました。近年は、インターネット上に公開されている牧師先生方の良質な講解説教から示唆を受けることも多々あります。中でも「空知太栄光キリスト教会」の銘形秀則先生が公開されている「牧師の書斎」は、「ヘブル的視点」から聖書を説き明かされており、教えられることが多くあります。また今回の第二の月の祭りに関しては、大田原キリスト教会のホームページに公開されている、大橋富男先生による民数記9章の講解説教から示唆を与えられました。
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