見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(マタイ1:23)
主の生誕が世界中で祝われるクリスマスです。今日は女系天皇論と比較しながら「女の子孫」として来られたキリストについて、その深い意味を皆様と共に考えていきたいと思います。新約聖書は、このような系図から始まります。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ1:1)
よく分からない人の名前がずらずらと続くので、ここで聖書を読むのをやめてしまう人もいますが、この系図はとてもとても大切なものです。
それは、神様がメシヤをダビデの子として地上に送られることが、はるか以前に約束(預言)されており、そしてその預言通りに来られたのが、キリストであるからです。イスラエルの人々は、キリストがダビデの子(王の血筋を引き継ぐ者)として来られるという預言をよく知っていました。そして、イエス様がキリストであることに気付いた人々は、このように歓声を上げて彼を迎えました。
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21:9)
最近日本では、新しい天皇陛下に代が継承され、多くの国民が新しい天皇陛下を歓迎しましたが、2千年前のイスラエルの人々も、イエス様がダビデ王家の流れを汲むキリストとして誕生したことを知り、彼を熱烈に歓迎したのです。
さて、日本の天皇家というのは、世界でもまれなものでして、今まで126代も続いているそうです。そして、歴代の天皇陛下の名前(血筋)は、全て系図に残されています。それ故に、日本においては、天皇陛下は特別な存在として人々の敬慕の念を集めています。
ところでキリストの系図は、さらにはるか昔の代から残されているのですが、天皇家とは大きく異なる点が一つあります。マタイの福音書に書かれている系図を、もう少し詳しく確認してみましょう。
アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、・・・エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、・・・ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。(マタイ1:2、6、16)
系図は「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ」というように、男系の系図として書かれています。ところがキリストに関しては「マリヤからお生まれになった」と書かれているのです。「ヨセフにイエスが生まれ」と書いてあれば、何の問題もありません。しかし、よく考えてみると、この系図はキリストの直前で断絶していることになります。
いま日本では「女系天皇」を認めるのかということを多くの人が議論しています。日本の天皇家は、イスラエルの人々の系図と同様に、代々「男系」の血筋によって続いてきました。126代の歴代の天皇の中で「女性天皇」は何名かいましたが、「女系天皇」は一人もいませんでした。そして少なくない人々は、「女系天皇」を認めることは、天皇家の血筋が途切れることを意味していると考えています。
しかし現代の医学や科学や、男女平等の観点から見ると、男系であれ女系であれ、血筋は受け継がれていくと考えることもできます。DNA的には、子どもは父親と母親の両方の遺伝子を受け継ぐわけですから、男性しか血筋を継承できないという理屈はないわけです。
例えば私と兄は、どちらかといえば丸い顔をしていて、鼻もそんなに高くはありませんが、これは母からの遺伝です。反対に弟は顔がシャープで鼻も高く、これらは父親ゆずりです。もちろん私も父方から継いだ部分があります。「眉毛」が太いことです。学生時代に友達に「海苔がついてるよ」とからかわれたこともあったのですが、これは父方のお爺ちゃんが屋久島出身だったらしく、それを受け継いだものらしいです。このように私たちは、当然のこと父方と母方の両方の血筋を継承しています。
しかし不思議なことに、古代イスラエルにおいても、日本の天皇家においても、血筋は男系によって受け継がれると考えられてきましたし、男系の系図のみが残されてきました。そして実際に、天皇家は「万世一系」という言葉があるように、今上天皇まで男系によって引き継がれてきました。そして、ダビデ王家の血筋もまた男系によって、キリストの直前まではきちんと継承してきました。キリストの養父であるヨセフについては、こう書かれています。
ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。(マタイ1:20)
聖書に、ヨセフが「ダビデの子」であることが明確に書かれています。ですからヨセフまでは男系によって、ダビデ王家の血筋は途切れることなく引き継がれてきました。そしていよいよ、長い歴史を経て、神様が約束された通り、ダビデの子としてキリストが誕生するというときになって、突然この血筋は途切れて、キリストは処女マリヤからお生まれになったというのです。これにはどのような意味があるのでしょうか。
それを理解するためには、私たちは創世記の話を思い起こさなければなりません。皆さんもよくご存じの通り、アダムはエバに誘われて、神様に禁じられていた「善悪の知識の実」を食べてしまいます。ところで、そのことが明らかになったとき、神様は人を惑わした蛇にこのような宣告を与えました。
神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3:14、15)
人を惑わした蛇に対して、主は「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」と宣告されました。そして、続いて「女の子孫」のことを単数形で「彼」と言い、「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と宣告されているのです。
聖書で「蛇」というのは、悪魔とかサタンとか呼ばれる者を指す言葉です。ですから、この箇所は「女の子孫」として来られるキリスト(彼)が、サタンの頭を踏み砕いて勝利されるということが預言的に語られているのです。アブラハムやダビデに約束されるはるか昔に、神様はキリストの生誕とその勝利を、創世記においてあらかじめ宣言しておられたのです。
そして、私たちが知らなければならないのは、キリストがなぜ「女の子孫」として来なければならなかったかということです。神様はなぜ「男の子孫」によって、サタンの頭を砕くとは言われずに、キリストを「女の子孫」として、この地に誕生させたのでしょうか。
そのことを考えるためには「男の子孫」とはどのようなものなのかを理解しなければなりません。聖書を2カ所確認しましょう。
そういうわけで、ちょうどひとりの人(man)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12)
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいる・・・(1コリント15:22)
創世記を見ると、アダムよりもエバが先に善悪の知識の実を取って食べたと記されています。しかし、「アダムとエバの2人によって罪が世界に入り」とは書かれておらず、「ひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り」と書かれているのです。そして私たち、全人類はアダムの子孫です。父親のいない子どもはいませんので、全ての人は、系図があるなしにかかわらず、罪を犯したアダムに属しているのです。
ここまで読んでいただけた方は、なぜキリストが「女の子孫」として誕生しなければならかったのか、理解されると思います。キリストは私たちの罪を贖(あがな)うために、アダムの血筋に属さず、アダムの罪と無関係な者、すなわち「女の子孫」として、この地に誕生してくださる必要があったのです。
私が小さいとき、教会学校の先生が、ピアノの上のホコリを指さしながら、それを真っ白な雑巾でふき取りました。そうすると雑巾は黒くなり、ピアノはピカピカになりました。そしてこれが、イエス様が私たちのためにしてくださったことだよと説明してくれたのを今でも覚えています。このことこそ、神がキリストを「女の子孫」としてこの地に誕生させてくださったことが意味していることであり、私たちがクリスマスに際して覚えるべきことなのです。
そしてキリストは「女の子孫」として、敵であるサタンに苦しめられた後(かかとにかみつかれた後)、ついに十字架と復活を通して敵の頭を完全に砕き、私たちをアダムの罪から解放し、ご自身のものとしてくださったのです。使徒パウロはこう言っています。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(1コリント15:21、22)
しかし、これらのことは人知をはるかに超えているので、そのまま受け入れるのは容易なことではありません。当事者であるマリアの婚約者ヨセフも、このことが理解できずに非常に悩みました。それは当然のことだと思います。ですから、主はヨセフに対して御使いを遣わし、特別にキリストの秘密を明らかにされました。
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイ1:20)
「聖霊による」・・・これはある意味では、さらに理解しがたいことですが、ヨセフはそのことを受け入れました。もしそれが、ぼんやりとした夢であったらなら、ヨセフは後にまた疑ったことでしょう。しかし、主は明確な啓示をヨセフに与えたので、ヨセフは「幼子が聖霊によって処女の胎の中に降誕された」ということをそのまま受け入れたのです。
そして、この事実を誰よりも知っているマリアは、わが子が十字架につくときにも、この事実を否定することなく、キリストを見つめ続けました。もしもマリアが他の男性と関係を結んで子を宿したのであったなら、彼女はこう言ったはずです。
「私が自分の不貞の罪を隠すために、うそをついていました」
「その子はキリストではありませんから、ゆるしてください」
「そして私を代わりに処刑してください」
しかしマリアは、確かに自分が処女の時に聖霊によってキリストを宿したということを誰よりもよく知っていたので、キリストの最後をそのまま見届けたのです。
ですからキリストが、アダムの血筋とは全く無関係な「女の子孫」として、聖霊によって処女マリアのうちに来られたことは事実であり、私と皆様を救うために神様が愛を持って、世界の基の置かれる前から(エペソ1:4)定めてくださったご計画なのです。
クリスマスに際して、神の御子キリストが処女マリアを通して生誕されたという神秘に想いをはせましょう。御子は、肉によれば(法的には)ダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば「女の子孫」として生まれ、大能によって公に神の御子として示された方なのです。
この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:2〜4)
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