「主の祭り」連載の途中ですが、今日は先週、教会で語らせていただいた御言葉の一部をシェアさせていただければと思います。
この前の週には、12年の間長血を患っている女が、信仰をもってイエス様の衣に触った場面を語らせていただきました。その時、多くの人が主に押し寄せていましたが、信仰をもって主の衣に触ったのは彼女だけでした。
この女性が病の癒やしを体験したとき、彼女は自分の病が癒やされたことを人々の前で証ししました。おそらく周りの人々は、主の御力に驚き、神様を賛美したことでしょう。イエス様は癒やされたこの女性に、こう語り掛けました。
「そこで、イエスは彼女にこう言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』」(マルコ5:34)
しかしそのような中で、ある一人の人は非常な焦りと不安の中にありました。それは、会堂管理者のヤイロといわれる人でした。なぜなら、彼の小さな娘が重病で今にも死にそうだったからです。ですからヤイロは、このことが起こる少し前にイエス様の足もとにひれ伏して、こうお願いしていました。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」(マルコ5:23)
そしてヤイロは、何とかして早くイエス様を自分の家に連れて行こうとしました。しかし、多くの群衆がイエス様に押し迫り、なかなか前に進めませんでした。しかも途中でこの女性がイエス様の衣に触って癒やされ、その女性とイエス様が話を始めてしまいました。この女性が癒やしを体験したことは感謝でしたが、ヤイロとしては「癒やされたのであれば、話は後にして、イエス様は早く家に来てほしい」と心の中で叫びたい気持ちだったはずです。死を目前にした病の娘を持つ親であれば、皆そう思うでしょう。しかし、ちょうどこの時、ヤイロの家の人がやってきて、絶望的なことを言いました・・・。
イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」(マルコ5:35)
この時のヤイロの気持ちはどんなだったでしょうか、急いでくれなかったイエス様を恨めしく思ったかもしれません。そして、何より恐れていたことが現実に起こってしまい、目の前が真っ暗になり、悲しみに押しつぶされそうになっていたことでしょう。
しかしこの時、イエス様は彼にこう言いました。
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:36)
常識的には耳を疑うような言葉が、イエス様によって語られました。恐れないも何も・・・既に娘は亡くなってしまったのです。この上、何の希望を持てと言うのでしょうか。ヤイロはイエス様の言葉をすぐには理解できなかったと思います。
私たちも、ヤイロほどではないにしても、不安や恐れを持つことが多くあります。今は新型コロナウイルスが猛威を振るっています。近年の伝染病(SARSやエボラ熱)は、いくら騒がれても患者の数や地域は限定的でしたが、歴史を振り返りますと、世界的なパンデミックが何度か起こっています。
1918年のスペイン風邪は、感染者は約5億人以上、死者は5千万人から1億人にもなったそうです。当時の世界人口は18〜20億人だったので全世界の、4人に1人は感染したことになります。この時は、高齢者の方はあまり亡くならず、多くの若者が亡くなってしまいました。ですから皮肉なことに、戦える人が減ってしまい、第一次世界大戦が早く収束したとまで言われているそうです(Wikipedia参照)。
それだけではなく、経済の不安、戦争、自分の将来への不安など、私たちは多くの不安や恐れを抱えています。そして、不安の故に他者を愛することができず、分け与えられないということもあります。
一方で、2013年には『心配事の9割は起こらない』という本が刊行され、多くの人に読まれました。悩みの9割は「妄想」「思い込み」「取り越し苦労」であり、実際には起こらないことだというのです。非常に的を得たタイトルで、私たちもこのような本から学べることも多く、心の安定にある程度は役立つと思います。
しかし9割は取り越し苦労だとしても、1割は実際に起こるのですから私たちは不安を抱くわけですが、主は恐れていたことが起こったとしても、大丈夫だと言われるのです。恐れの反対は「平安」ですが、主は私たちに常に平安を語り掛けてくださいました。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)
世が与える平安とは何でしょうか? 多くの人は、お金や家や仕事や地位などに頼って安定した生活を保とうとします。しかしそれらのものは、恐れていたことが現実に起こると、もろくも崩れていきます。経済的な安定が、ある日突然崩れることもありますし、お金があっても病に侵されれば、一瞬にして不安になります。しかし、イエス様はこうも言われました。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)
患難がないから平安だというのではありません。むしろ患難や苦難はあるものだが、その中でも平安を持つようになると言われるのです。ヤイロに対しては、現実に娘の死が起こってしまったにもかかわらず、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。
この世の中の一番の絶望は死ですが、もしも死を恐れないでいられれば、それ以外のことは何でもありません。経済的な問題、病、人間関係などさまざまな患難や苦難がありますが、人は死を一番恐れます。人は「死」をどうすることもできないからです。あの堀江貴文さんも、死を怖れていると明言しています。彼が多くの活動に没頭している理由も、暇になると死を考えてしまうためだとも言っています。
しかしイエス様は、愛する娘の死の知らせを聞いたヤイロに対して「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。これはヤイロだけでなく、皆さま一人一人に語られたキリストのメッセージなのです。
一方で、主から離れる者には、真の平安がありません。旧約聖書の歴代誌第二にはこういう言葉があります。
長年の間、イスラエルにはまことの神なく、教師となる祭司もなく、律法もありませんでした。・・・この時期には、出て行く者にも、入って来る者にも平安がありませんでした。国々に住むすべての人々に大きな恐慌があったからです。(2歴代誌15:3〜5)
これはアサ王の時代に、オデデの子アザルヤが語った言葉です。この時代、イスラエルにはまことの神なく、教師となる祭司も律法もなく、人々は偶像を崇拝し、主から離れていました。ですから預言者であるアザルヤはアサ王とイスラエルの民に対して、主に立ち返るように勧めたのです。
結果彼らは、この預言者の言葉に従いました。「ユダとベニヤミンの全地から、また彼がエフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき物を除いた。そして、主の玄関の前にあった主の祭壇を新しくした」(15:8)とあります。
アサ王は自分の母親でさえ容赦はしませんでした。16節には「アサ王の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼は王母の位から彼女を退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、粉々に砕いて、キデロン川で焼いた」とも書かれています。これらのことの故に、主もイスラエルの人々の信仰を喜ばれ、彼らに勝利と安息を与えられました。
ユダの人々はみなその誓いを喜んだ。彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。(2歴代誌15:15)
かつて彼らは偶像を崇拝し、自分の力を頼り、周辺諸国と戦いましたが、出て行く者にも、入って来る者にも平安がなく、国々に住むすべての人々に大きな恐慌がありました。しかし彼らが主に立ち返り、偶像を除き、喜んで主に仕えるようになると、彼らの心は平安に満たされるようになったのです。
さて、ここで冒頭の話に戻りたいと思います。イエス様はヤイロの娘が亡くなった後に、彼の家に着きました・・・。
彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」(マルコ5:38、39)
この言葉を聞いた人々はキリストをあざ笑いました。しかし、主の視点は私たちとはまったく違います。私たちは死を絶望だと思いますが、イエス様はただ寝ているだけだと言われるのです。そして彼は皆を外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれました。イエス様は、自分と同じ心を持つ者、恐れないでただ信じる者たちと共にいることを願われました。そこに神の力が注がれるからです。続きを読みましょう。
そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。(マルコ5:41、42)
私たちは信仰があるといっても、時に恐れ、不安になり、平安を失うものです。私も先週、とあることで落ち込むことがありました。また親しくしてきた人の会社が倒産することを決めて、その社長は「何をどうしたらいいか分からない」と言っていました。皆さまもそれぞれ、不安や恐れを感じることがあるでしょう。しかし、そのような私たちに対して主は「恐れないで、ただ信じていなさい」と語ってくださるのです。そしてヤイロの娘がよみがえったように、絶望に見えることを通して、主はご自身の栄光を現してくださるのです。
私が数週間前に「聴くドラマ聖書」を聴いていたときに、「恐れないで、ただ信じていなさい」という御言葉が心に迫ってきました。この時は、新型コロナウイルスのことなどまったく知りませんでしたので、今振り返ると不思議な気がします。もちろん、私たちは新型のウイルスに対してできる限りの予防をし、十分に警戒すべきですが、同時に「恐れないで、ただ信じていなさい」という御言葉を、主が皆さま一人一人に直接語り掛けている御言葉として受け取っていただければと思います。
また中国の方々のためにも、共に祈りましょう。現地からの映像によると、多くの人が非常な恐れと不安の中にいます。特に武漢の方々はとても厳しい状況の中にいます。亡くなられた方の家族の上には主の慰めが必要です。目に見える兄弟を愛さずに、目に見えない主を愛することはできないのですから(1ヨハネ4:20)、彼らのためにも心を砕いて祈る者となりましょう。
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