あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。(マタイ26:2)
この言葉は、ご自身の最期を悟られたキリストが、弟子たちに宣言された言葉です。「過ぎ越しの祭り」というのは、キリストの死と深い関係のある祭りです。前回はこの祭りのもう一つの名前である「種を入れないパン」とは何を意味するのかについて御言葉を分かち合いました。
■ 前回の内容
それは旧約聖書では「悩みのパン」と表現されており、人々はこの祭りを通して、出エジプトの時の苦しみと、主によってそこから解放された恵みを思い起こしました。新約の時代になると「パン種」というのは、パリサイ人やサドカイ人たちの人間的な教えを意味していることが明らかになりました。また使徒パウロは、少し異なる角度から、パンとパン種について、聖霊の啓示を受けてこのように語りました。
あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(1コリント5:6〜8)
使徒パウロは、パン種とは「高慢」「悪意」「不正」であると言っています。そして私たちに対し、そのようなものを避け、パン種のない者であるように勧めたのです。パウロの言葉を受け取ったコリントの人々も信仰を持っていましたが、そこにわずかでも人間的なものが入ってしまうと、そのことはその人自身、また信じる者の群れ全体に大きな悪影響を与えてしまうのです。このようにわずかな不純物が入ることにより、純粋なものが損なわれてしまうことを、聖書はパンとパン種(イースト菌)のたとえで教えているのです。ここまでは前回書かせていただいたことですが、今日はさらに踏み込んで、この祭りの中心テーマについて書かせていただきたいと思います。まずは、有名な最後の晩餐の場面を確認しましょう。
■ 神のことば
イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」・・・それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」(ルカ22:15、16、19)
ある人々は、キリストは十字架にかけられて死んでしまったのだから、彼の最後は失敗であったといいます。しかしキリストは、人々の罪の贖(あがな)いのためにご自身が犠牲になることを最初からご存じであり、実にそのために世に来てくださったのです。そしてその苦しみを直前にして、キリストは12弟子と共に最後の過ぎ越しの食事をされました。その時に食べられたパンは、もちろん種を入れないパンでした。この時、キリストは種を入れないパンを分け与えながら「これは、わたしのからだです」と言われました。これはどういう意味でしょうか?
まず第一に、種を入れないパン(キリストのからだ)というのは、「神のことば」を意味しています。ヨハネの福音書の最初にこうあります。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)
この「ことば」とはキリストのことです。そしてキリストは、ご自身をパンにたとえ、それを食べるように人々に言われたのです。イエス様はこうも言っています。
これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。(ヨハネ6:58)
神の「ことば」は、モーセや預言者を通しても与えられました。しかし人を通して語られた神の言葉は、100パーセント父なる神の心を伝えるものではありませんでした。ただ神の子キリストだけが、聖霊によって父の深い心を汲み、純粋な神の言葉を語られたのです。そしてキリストが語られた「ことば」の中心は、神の愛のメッセージでした。彼はこのように語られました。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。・・・人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:9、13)
■ 裂かれるパン
そして、キリストは弟子たちに、パンを裂いて与えられました。他の聖書箇所においても、パンが人々に分け与えられるとき、それはいつも裂かれて与えられています。パンは裂かれなければ、人々に分け与えることができないからです。そして、ここに深い比喩があります。
キリストは単に言葉によって神の愛を語られただけでなく、ご自身が裂かれるパンとなられて、神の愛のメッセージを私たちに与えてくださったのです。もしもキリストに肉体がなく、天使のような存在であったなら、愛のメッセージを語ることはできたかもしれませんが、ご自身のからだが裂かれるほどの犠牲を払うことはできなかったでしょう。ですから「ことば」なるキリストは、その犠牲を払うために人となられたのです。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)
最初、キリストは言葉を通して神の愛を語られ、私たちを「友」と呼んでくださいました。そしてついにご自身の言葉通り私たちのために、御体を裂かれ、いのちを捨ててくださったのです。キリストの「からだ」が十字架の上でパンのように裂かれたということに関しては、彼の死とともに神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたという事実が、それをよく象徴しています。このように書かれています。
それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マルコ15:37、38)
■ 苦しみ
このことは神の子であるキリストにとっても、非常な苦しみの伴うことでした。前回、種を入れないパンは苦菜と共にイスラエルの人々のエジプト時代の苦しみを象徴していて「悩みのパン」と呼ばれていたということを紹介しましたが、これらのことの中心もまたキリストの十字架の苦しみなのです。
キリストは、御体を裂かれるような大きな苦しみを受けることを知っていながらも、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われました。キリストが過ぎ越しの祭りに参加し、過ぎ越しの食事をするということは、彼自身が過ぎ越しの犠牲となるカウントダウンが始まることを意味していました。
普通の人は苦しみを避けようとしますし、誰か他の人のために自分が苦しむことを望みはしません。ましてそのために命を捨てることなどはしませんし、そのことを望むことなどあり得ません。しかしキリストは、私たちが罪の奴隷となっていることをあわれんでくださり、その愛の故に、種を入れないパンとして裂かれ、犠牲となってくださることを「望んで」くださったのです。
この方の内には、一切の「高慢」「悪意」「不正」などの不純なパン種がなく、まさに純粋で真実なお方です。この方が裂かれることを通し神様が私たちに示してくださったのが、真実な愛のメッセージなのです。そして、この神の愛を「アーメン」として受け取った者は、キリストに連なる者、主のご性質にあずかる者へと変えられるのです(2ペテロ1:4)。
■ 聖餐の意味と恵み
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。(1コリント10:16、17)
キリストのからだにあずかる者がキリスト者であり、その群れが教会です。そして私たちは、多数であっても、一つのキリストの「からだ」とされた者たちです。使徒行伝を見ると、信者となった者たちは、キリストを覚えて、集まるごとにパンを裂いていたとあります。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(使徒2:46、47)
古代イスラエルの人々は、モーセに率いられてエジプトの奴隷という身分から解放され、荒野でマナを食べましたが、私たちはキリストを通して純粋な神の「ことば」を与えられ、引き裂かれた「からだ」を通して真実な神の愛を知り、ついに罪の奴隷から解放されました。そしてそれを覚えるのが、聖餐式なのです。
■ おわりに
このように、種を入れないパンが象徴していたのは、キリストの純粋な「ことば」であり、裂かれた「からだ」、そしてその犠牲の苦しみであったことが分かります。そして神様は、キリストを通して私たち一人一人に対して愛のメッセージを語ってくださったのです。キリストの十字架の苦しみと、神の愛を覚える者となりましょう。
このような意味が秘められているので、この祭りの名前は「種なしパンの祭り」とされました。今年2020年の祭りは、4月8日から16日です。今日のキリスト教会では、特別なことはしないかもしれません。また、コロナウイルスの影響で教会の通常の礼拝もできない所もあると聞いています。しかし、私たちは心の内で主と交わることができます。静かにこれらのことを心に刻み、主の愛に感謝するときとしましょう。
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