今までは、「種を入れないパン」に注目して、過ぎ越しの祭りの意味を確認してきましたが、今日は祭りの中心テーマである「子羊」について、皆様と共に聖書をひもといていきたいと思います。
第四福音書の書かれた目的
ところで、福音書はイエス様について直接的に描いている書物ですが、その中で最後に書かれ「第四福音書」と呼ばれるヨハネの福音書があります。ヨハネの福音書が書かれたときには、既にマルコ、マタイ、ルカの福音書は存在していましたから、ヨハネはこれらの福音書とは異なる観点を持って書きました。他の福音書が比較的、キリストの公生涯を時間軸に沿って書いているのに対して、ヨハネは私たちが救われるのに大切かどうかという重要度に応じて紙面を割いています。
この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:30、31)
使徒ヨハネは私たちが「いのち」を得るために福音書を書いたと言っていますが、そのヨハネが最も多くの紙面を割いたのが、過ぎ越しの祭りです。全体で21章のうち12章から最後の21章までの実に半分近くは、過ぎ越しの祭りの前後、1、2週間の内容なのです。
モーセの時代に民がエジプトから解放された過ぎ越しの祭りを、神はイスラエルの最も大切な時とし、その時を新年として定められました。そして新約時代の使徒ヨハネは、キリストの多くの奇跡(しるし)を見たにもかかわらず、それら以上に多くの紙面を割いて、過ぎ越しの祭りの時のキリストを描いています。そしてそのことは、私たちが「いのち」を得るためであるというのです。これらのことから、過ぎ越しの祭りがいかに重要な祭りであるかが分かりますが、まずはモーセの時代の過ぎ越しの祭りの定めについて確認しましょう。
過ぎ越し
主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。・・・あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。・・・その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。(出エジプト12:1〜3、5〜7、12、13)
神は、10のしるしを見せても逆らい続けるエジプトに対して「滅ぼす者」を送り、その罪に報いることを決められました。しかしイスラエルの民に対しては、子羊をほふり、その血を取り、家々の2本の門柱とかもいにつけるように命じられ、その血がある家には災いを下さず、通り越そうと約束されました。これが過ぎ越しの祭りの起源です。
その時にほふる羊について、主は「羊は傷のない一歳の雄でなければならない」と命じられました。どうせ殺して、その血を取るためだけであるなら、どんな羊でもよいと思う方もいるかもしれません。なぜ「傷のない」羊でなければならなかったのでしょうか?
傷のない子羊
イエス様は私たちに「霊とまことによって、父なる神様を礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:22、23)と教えてくださいました。しかし目に見えない神様に対して「まこと」の礼拝をささげることは簡単なことではありません。主はマラキ書の中で、このように嘆かれました。
「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。――万軍の主は、あなたがたに仰せられる――わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。」(マラキ書1:6)
イスラエルの人々は表面的には、羊や牛のいけにえをささげて、主に仕えていました。しかし主は彼らに対して「あなた方は、わたしの名をさげすんでいる」と言われました。その理由は、このように書かれています。
あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる――(マラキ書1:8)
羊や牛というのは、当時の人々にとって大切な財産でした。そしてその価値は、病気や傷の有無、肥え具合などによって変わってきました。ですから人々は、どうせ殺して焼いてささげてしまう主へのいけにえに、一番価値の低い、足のなえたものや病気のものをささげていたのです。そしてそれをしながら、主はそのことに気付かないだろうと思っていたのです。そこには主に対する「まこと」がなかったのです。
私は数年前に友人に勧められて、Canon の一眼レフを買いました。ところが、最近では携帯電話のカメラの画質が非常に良くなっていて、場合によっては携帯のほうが鮮やかな写真が撮れる気もしています。しかし、それでも遠くのものを撮ろうとするときなどには差が出てきます。一番の違いはレンズの差です。良いレンズは、それだけでカメラ本体よりも高かったりもします。そしてレンズというのは、とてもデリケートです。湿気が多い時期はカビたりもしますし、キズもつきやすいです。そして少しでも傷のついてしまったレンズは、価値のないジャンク品として扱われてしまいます。
主はイスラエルの民が「まこと」を主に示すように、「羊は傷のない一歳の雄でなければならない」と命じられたのです。しかし、このことは単に「主に最良のいけにえをささげなさい」と命じられた以上の意味を持っています。それはこの子羊がキリストを意味しているからです。もう一度、聖書を確認してみましょう。
人々に、じっと見られるキリスト
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。(出エジプト12:5、6)
子羊が傷の無いものでなければならないというのは、キリストが怪我や病気をしてはいけないという意味ではありません。旧約の時代には、外面的な「きず」について語っていますが、神様が本当に注目されるのは、内面の「きず」すなわち「罪」についてです。モーセの時代、人々はこの羊を、過ぎ越しの日まで「よく見守る」ように命じられていました。それは子羊に何らかの怪我や病気があってはならなかったからです。同様に人々はキリストを取り囲み、彼に何らかの罪や過ちがないかを探すため、じっと見ました。このように書かれています。
そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。(ルカ6:7)
しかし当然のこと、人々はキリストに何の罪も悪も過ちも見いだすことができませんでした。このように書かれています。
さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。(マルコ14:55、56)
いよいよ彼が十字架で殺されるというときになっても、何の悪い点も見つかりませんでした。それは異邦人であるローマの総督ピラトの目にも明らかでした。
ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。・・・だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。(マルコ15:10、14)
ピラトの妻もキリストについて「正しい人」と証言し、夫ピラトに対して、キリストを釈放するように進言しています。
また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」(マタイ27:19)
イエス様と一緒に隣で十字架につけられた強盗たちは、最初は人々と一緒になってキリストをののしっていましたが、そのうちの一人は、キリストになんの罪も「きず」も無いことに気付き、もう一人の強盗に対してこのように言いました。
「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:41)
イスラエルの民が過ぎ越しの子羊を見守ったように、キリストの周りにいた人々は、キリストをじっと見守りました。しかし彼には何の罪も見当たりませんでした。まさにキリストは、「傷(罪)のない」子羊であったのです。ではなぜ、このように罪のない正しい方が、死ななければならなかったのでしょうか?
尊い血による贖い
モーセの時代、イスラエルの民は神の憐みの故に、子羊の血によって災いを過ぎ越していただきましたが、本来、殺されるべきは彼らでした。なぜなら、罪を犯したのはエジプト人だけではなく、イスラエルの民も同様だったからです。そしてそれは、私たちも同様です。私たちは日々罪を犯す者ですから、本来は自分の魂を贖(あがな)うことができず、自分の「いのち」を諦めなければならない存在なのです。詩篇の記者はそのことに気が付いてこのように告白しています。
人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――(詩篇49:7、8)
そのことをご存じであられた主は、私たちを愛する愛の故に、傷も汚れもない小羊のようなキリストを私たちの贖いの代価として与えてくださったのです。そしてこのことを永遠の昔から計画されていた主は、モーセの時代に、人々に傷のない1歳の子羊を用意して、それをよく見守るように命じられたのです。もしもキリストに、わずかでも罪や汚れがあったなら、それは傷のあるカメラのレンズのように、何の価値も無かったでしょう。そしてその血によって、罪が過ぎ越されることも、命を得ることもかなわなかったでしょう。
しかしキリストには、何の罪も汚れも過ちもありませんでした。この方の犠牲の血(命)がどれほど貴いか、想像できるでしょうか? 父なる神は、私たちを愛し、私たちの罪を過ぎ越し、永遠の「いのち」を与えるために、傷の無い小羊のようなキリストを十字架で死なせ、その血によって私たちを贖ってくださいました。受難節の今、そのことをもう一度心に刻みましょう。最後に使徒ペテロの言葉を読んで終わりにしましょう。
ご承知のように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18、19)
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