2014年ごろからだろうか。米国でヒットした福音派系のキリスト教映画が、日本のスクリーンにもかかるようになったのは。記憶に残る作品としては、「神は死んだのか」(原題は God’s Not Dead)「復活」「祈りのちから」「天国からの奇跡」「天国は、ほんとうにある」などである。
個人的に気に入っているのは「天国からの奇跡」である。それは、超常現象や、可視化された神やキリストなどが表に出ることなく、そこはかとなく示される程度に抑えられ、物語の本流が人間ドラマになっているからである。
本作「赦(ゆる)しのちから」は、「祈りのちから」「ウッドローン」などを製作したケンドリック兄弟による最新作である。原題は「Overcomer(乗り越える者)」。米国では昨年8月23日に封切られ、製作費500万ドル(約5億4千万円)に対して、3700万ドル(約40億円)の興収を記録している。製作費の7倍を超える収益というのは、ハリウッドの常識からすれば、大ヒット作品ということになる。日本では、5月8日から全国ロードショーが決まっている。新型コロナウイルスの影響をもろに受けながらも、はこぶね便事務局の礒川道夫氏が現在も地道に広報活動を行っている。
そんな礒川氏からの招待で、一足お先に本作を鑑賞させていただいた。この映画を一言で言うなら、キリスト者の本音が問われている作品といえる。だから全体として、人間ドラマとしての葛藤や盛り上がりがきちんと機能している。
公開前なので詳細は言えないし、ネタバレも最小限に抑えたい。しかし、それでも語らなければならないのは、本作では「あなたは誰か?」という人間普遍の問いに対し、明確に「クリスチャンです」と回答していることである。
本作のキーワードとなっているのは、ヨハネの手紙一5章5節「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」である。
この「勝つ者」が、原題「Overcomer」の由来である。私たちは勝利を喜ぶ。どんな場面でも、勝利する者でありたいと願う。それはオリンピックの大舞台であっても、地元の運動会の徒競走であっても変わらない。草野球でも、はたまたカードゲームや将棋であっても、勝利を目指すという意味では同じだろう。これはクリスチャンのみならず、世間一般の誰もが抱く願いである。
聖書は、そのような勝者になれるのは「イエスを神の御子と信じる者」だと言う。しかも、「そんなこと当たり前じゃん!」とでも言いたげな快活さで語りきっている。本作はこの「快活さ」が随所に感じられる。
物語の冒頭、ドローン撮影の醍醐味を感じさせる上空からのショットに始まり、それが高校の建物を映し出す。そのままカメラは体育館に入っていき、バスケットボールの試合を映し出す。ここまでがワンカット。なかなかいい滑り出しだと思った。
その後、この話はバスケットボールが主体ではなく、クロスカントリーというどちらかというと地味目な競技に打ち込む女の子の話だと分かり始める。しかも彼女はどこか屈折していることも冒頭から提示される。同じ高校の男子生徒からヘッドフォンを盗み出す。しかも盗んだ物を自分で使うのではなく、そのまま何かの箱の中に入れてしまっておくだけなのだ。つまり、彼女はそれが欲しくて盗んだのではなく、そんなスリルを味わいたいがための衝動的な行為であることが伝わってくる。
ここが唯一暗い場面である。しかし彼女はそこから変えられていく。そして自らが犯した罪を一つ一つ悔い改め、盗んだものを返して回るのである。この潔さこそ、私たちキリスト者が求めてやまない「抜本的な回心」の姿である。
だが、彼女をめぐる物語は、単に一人の高校生がキリストを信じました、ということだけに留まらない。その先に、今まであった出会い、触れ合い、そして何気ない会話がすべて伏線であったことが分かるような仕掛けが待っているのである。
そして、その伏線を回収するキーワードとなるのが「あなたは誰か?」という問いである。先ほどの聖句にあったように「世に勝つ者」は、この「あなたは誰か?」という問いに快活に答えられるだろう。自信を持って、胸を張って「私は○○です」と言えば、それでいいだけなのだから。
しかし私たちは、信仰者であってもなかなかそうはいかない。劇中、この「あなたは誰か?」という問いが2度発せられる。最初は問われた者が戸惑い、あれこれと当たり障りのないことでお茶を濁そうとする。しかしその後で、その問いを発した者が「どうしてすぐにクリスチャンだと言えないんだ?」と投げ掛ける。
一方、別の場面でも同じ問いが出てくる。しかしその時、問われた側は、明確に答える。「私はクリスチャンです」と。ここに本作最高の快活さがある。そしてそれは「イエスを神の御子と信じる者」だからこそ、答えを導けたといえよう。
本作は「伝道に最適」という触れ込みだが、それに関しては少し躊躇(ちゅうちょ)する。やはり主人公の変化を説明するのに、ただ聖句と福音の言葉のみを用いているのは、未信者には分かりづらいだろう。その部分が結構長かったため、「宗教臭さ」を感じさせることになるかもしれない。だが心配はない。
その後に導かれるクライマックスの感動は、誰が見ても、どんな境遇にあったとしても、共感できる人間の心の機微を描いているからである。いい意味で、本作にはキリストの奇跡的顕現も神の声も登場しない。あくまでも「神を信じる人間」のドラマとして完結している。それでいて、観る者に「どうしてそうなるのか」という納得をしっかりと与えるような演出が随所に施されている。
あえて少し下世話な表現をするなら、「ベタベタで先の見える王道的展開」だからこそ、多くの人々の心の琴線に触れるし、特に「クリスチャン」という生き方をする人々が、どのような思考パターンなのかを、とても自然に、そして(何度も言うが)快活に描き切っている。
新型コロナウイルスの影響で人の出足が危ぶまれるが、ぜひ劇場で観てもらいたい一作である。
■ 映画「赦しのちから」予告編
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