本作「ひとよ」は、衝撃的な展開で幕を開ける。タクシー運転手の女性が、男性客を降ろしたかと思うと、その男性に向かって車をバックさせ、ひき殺してしまう。女性の名は、こはる(田中裕子)。三児の母である彼女は、DVに苦しむ家族を救うために自分の夫をひき殺してしまったのである。
そしてこはるは、子どもたちに言い放つ。これまで暴力を振るってきた父親は殺した。今からあなたたちは自由だと――。
繰り返しになるが、これは物語の結末(ネタバレ)ではない。何と冒頭の5分内に起こる出来事である。観客は、作品を観始めた瞬間にハンマーでいきなり頭を殴られたような、そんな感覚に陥ってしまう。
そして15年の年月がたつ。ここから本編が始まるといっていい。その描写、物語の進み具合は、冒頭の急展開に比べて、とてもゆっくりである。何気ない日常を描写しつつ、それでいて時々湧き起こる「不協和音」を意識せざるを得ない、白石和彌監督の巧みな演出が光る。
母親は殺人罪で刑務所に行ってしまった。残された子どもたちは、母が言い放ったように突然「自由」になった。しかしそれは、彼女が思い描いた「自由」とは程遠く、母親不在の状況で必死に生きながらも、この15年間の道のりは、決して平凡なものではなかったことが分かり始める。
長男・大樹(鈴木亮平)は結婚し、一児の父となっていた。しかし家庭は崩壊寸前。吃音(きつおん)から来るコミュニケーション苦手意識も重なって、妻子とは別居中である。次男・雄二(佐藤健)は東京でいかがわしい雑誌のライターをしている。小説家として成功を夢見ているが、現実の生活は性風俗のレポーター程度。母への怒りを抱えつつ、鬱屈(うっくつ)とした生活に身を委ねている。末っ子にして長女の園子(松岡茉優)は美容師になる夢を持っていたが、事件のことで回りからうわさされることに嫌気がさし、夢を諦め、今はスナックで働いている。最近まで付き合っていた男性からは暴力を受けていたことが、スナックの同僚たちとの会話からさりげなく知ることができる。
そこに突然、刑期を終えた母・こはるが帰ってくる。水面に投げ込まれた石が水紋を描くように、子どもたち、および周囲で彼らを見守ってきた人々の日常に、次第に波が立ち上がっていく。果たして彼らは、こはるをどう受け止めるのか。彼らは一体、15年前の「あの出来事」をどう受け止めてきたのか。そして彼らは、家族として再生することができるのか――。
次第に子どもたちの本心が露わになってくる。彼らが過ごした15年間は、決して母が願ったような「自由」を謳歌する生き方ではなかった。それを知った親戚の女性がこはるに、子どもたちに謝ったら?と問う。しかし彼女は「自分のしたことを疑ったら、子どもたちが迷子になっちゃう」と振り絞るような声で答える。
そう、彼女も自分の決断が正しかったのかどうか、確信を持てずにいたのである。だからこそ、「正しいことをした」と信じたかったのであろうし、そうでないと子どもたちに対して、親として提示した「回答」にブレを生じさせることになってしまう。それは結果的に、彼らをまた路頭に迷わせてしまうことになる。そう彼女は考えていた。
このあたりは、親として未熟さを感じながらも子どもたちに向き合っていかなければならない筆者自身の現実とも重なり、涙を禁じ得なかった。やはりこはるは、事件の加害者であるとともに、事件によって被害を受けた子どもたちに、なるべくその痛手を与えないよう、必死になっていたということだろう。相手のことを思いつつも、それが伝わらないもどかしさ。そうせざるを得なかった、ということを伝えたくても、それを伝える術のない無力さ。
本作は、非日常的で特殊な一家族の物語でありながら、その底流には日本人として誰も看過しえない「苦悩」を浮かび上がらせるものである。そのことは、原作者である劇団KATUTAの桑原裕子氏がパンフレット内で述べている言葉からもうかがい知ることができる。
『ひとよ』を書いたのは、2011年の夏でした。東日本大震災は、私たちの日常を一瞬で激変させました。(中略)夏になり “いつも通りの日々” を取り戻したかのように振舞っていたけれど、本当のところ私は「変わってしまったんだ」という気持ちを胸の奥に置いたままでいてしまったのだと気づきました。世間では「絆」「復興」「再生」という言葉が絶えず飛び交っていたけれど、それはいったい、どうすればできることなのか。不安や無力感、行き場のない想いとどう向き合えばいいのか。自分の存在が誰かの心を救うことは出来るのか。さまよう問いに答えを見つけられぬまま描いたのが、この『ひとよ』です。
つまり、市井の一家族に起こった悲劇は、東日本大震災のメタファーであり、そこから立ち上がろうとする家族一人一人の姿は、私たち日本人のそれをシンボライズしていたことになる。
劇中、こはるがとても印象的なセリフを吐く。自分たちにとっては特別な一夜も、周りから見ればただの一夜でしかない――。
震災からやがて9年がたとうとしている。日本映画の中には、震災をモチーフにし、その混乱や葛藤をメタファーとして描く作品が次々と生み出されている。やはり2011年は、私たち日本人にとって「特別な時(カイロス)」なのだろう。しかし諸外国から見るならば、そして震災を教科書やアーカイブのみで知る世代が次々と生まれ始めている「令和」時代から見るならば、震災という出来事は、ただの「ひとよ(一夜)」でしかなくなっていくのだろう。
一方、本作を観終わって次のような聖書の言葉が思い浮かんだ。
まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。(詩篇84:10)
ある者にとって、特別な「一夜」がある。それが悲劇的な出来事のみならず、喜びと感謝に満ちたものとして記憶されることもあるはずである。聖書が語る「あなたの大庭にいる一日」とは、まさにそんな「一夜」を表しているといえよう。
苦しみの中にある人々にとって忘れられない「一夜」があるとしたら、その苦しみを忘れさせてくれる、解放してくれる、そんな「一夜」を体験することもできるのだよ、と知恵の書「聖書」は語る。ここでは福音主義的な言い回しよりも、むしろ現実的な人間の喜怒哀楽の一表現として受け止めた方がしっくりくるだろう。
悲しみから立ち上がろうとする「一夜」ばかりが人間に与えられているのではない。その瞬間、そこにいることが、他の千日にも勝るほど忘れがたく、喜ばしい、という「一日(一夜)」もあるのだ。
人はそういった凋落と隆盛の狭間を、今日も生きているのである。
秋の一日、映画を観て、それから聖書を読む。そんな一日(一夜)を過ごしてみたい人、必見の映画である。
■ 映画「ひとよ」予告編
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