映画レビューには似つかわしくないが、聖書の講解から始めてみたい。
聖書の冒頭、旧新約聖書の始まりというと、創世記1章1節のこの言葉である。
「初めに、神が天と地を創造した」
ここで言う「天と地」という部分は、ヘブライ世界では「天と地の間にあるすべてのもの」という意味を包含しているという。「天と地」。すなわち私たちが生き動くこの世界、そして私たち自身を、神が造りたもうたという意味で受け止めることができる。
しかもこれは、プラモデルを作るように既成の事物を組み合わせて生み出されたという意味でもなければ、レシピ通りに作り出された量産可能な料理という意味でもない。
むしろ、この世の始まりから終わりまでもご存じの方が、今までもなかったし、これからもあり得ない、というまったくのオリジナルとして「創造(クリエイション)した」という意味である。
まとめるならこうなる。この世に存在するすべてのものは、神がオリジナルあふれる存在として、新たに創造されたもので満ちている、ということである。そしてその創造物の一例が、他でもないこの私である、というのが福音的メッセージの根幹となっている。
前置きが長くなったが、今回レビューを書かせていただくのは「蜜蜂と遠雷」である。本作は、恩田陸の同名小説を映画化したものである。小説は、第156回直木賞、第14回本屋大賞をダブル受賞している。物語は、国際ピアノコンクールを舞台に、コンクールに挑む4人の若きピアニストたちの葛藤や成長を描いている。ちなみに私は原作未読であり、映画を何の予備知識もなく鑑賞している。
本作は、架空の国際ピアノコンクールに挑む4人の若者たちの姿のみを追っている。そのため2時間余りの作品のうち、ピアノが鳴っていない時間の方が圧倒的に少ない。ほぼ、クラッシックのピアノ演奏が流れ続けている。しかも劇中では、4人の「ピアニスト」たち(演じている松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士らは、当然ピアニストではない)がピアノを弾くシーンが当然のごとくメインパートである。クライマックスで主人公の栄伝亜夜(松岡)がピアノを弾くシーンなど、実際に演じている松岡の指の動きを映しているため、うそはつけない。
そもそも本作は、「音楽」という聴覚を通して訴え掛ける芸術を、「文章」という媒体で私たちに提示するという、恐ろしく高度な原作に基づいている。その完成度の高さが、直木賞と本屋大賞という形で結実したのだろう。
しかし、これを映画化するということは、さらに難しい作業をそこに伴うことになる。それは、舞台は架空の国際ピアノコンクールでいいが、実際に演奏される楽曲や、特に中盤で「自由演奏」とだけ掲げられたパートを各ピアニストが創作し、演奏し、しかもその演者の感情を観客である私たちに分かりやすく見せなければならないという、いまだ映画が試みたことのない、そして、成功したとは言いきれない領域に果敢に挑んでいるのである。
まずこの点で、実際に4人の「ピアニスト」たちにリアリティーが付与されている点のみを取り上げても、傑作といっていいだろう。同時に、彼らの内面の葛藤に対する明確な回答を、具体的なピアノ演奏という形で可視化できている点も素晴らしい。
だが何より本作が訴え掛けてくるのは、ピアノのみならず「芸術」一般に対するある種の神秘的、宗教的な回答そのものにある。
劇中、コンクールの最終審査のために来日した名指揮者(鹿賀丈史、なぜか登場人物は日本人が多い!)が、次のような意のことを語る。
「音楽は一瞬であり、奏でられた音は目に見えず、すぐに消えていく。しかし音楽家は、音を通じて永遠の世界と私たちをつなげているのだ」
そして最後のクライマックスがやってくる。かつて天才少女と呼ばれた主人公の栄伝は、なぜかピアノを弾けなくなってしまい、7年前にコンサート会場から逃げ出してしまった経験を持つ。再起をかけた彼女は、「どうしてピアノを弾くのか」という根源的な問いに向き合ってきた。それに対する「音楽の神様」からの回答は、すべての音はギフテッド(与えられたもの)だ、というもの。それを体現する16歳の天才少年、風間塵(鈴鹿)との出会いを通し、彼女はこのことに気付く。
原作者は登場人物を通して、こんな趣旨のことを語っている。
「自然の中の音楽が聴けるように、『音を外へ連れ出す』ことのできる音楽を、演奏できないだろうか」
ここで冒頭の聖書の言葉がよみがえってくる。この天地の間にあるすべてのものを神が創られたとするなら、自然の中で奏でられる音は、神の創造物であると同時にギフテッド(贈り物)である。ひいては、人が音楽に感動し、芸術に引かれていくのもまた、神に創造された存在としての理(ことわり)なのだろう。
「音を外へ連れ出す」=「音を通じて永遠の世界と私たちをつなげる」と捉えるなら、音楽家(そして芸術家)は、神の創造の業を私たちに伝える存在ということになるのではなかろうか。
僭越(せんえつ)ながら、映画を観終わって、ピアニストの姿を自分自身と重ねてしまった。それは「説教者としての自分」である。
牧師は教会の管理運営を行う。その中でかなりの部分、説教するということに時間を費やす。毎日曜日、祈祷会、婦人会、ユース集会など。一人で一つの地域教会を牧会しているのであれば、大小合わせて、おそらく年間200~300回くらいの説教をこなすことになるのではないだろうか。
すると、ふとこんな疑問が湧き上がってくる。「なぜ説教しているのか?」
考えてみると、説教も、書き記した言葉(文字)ではなく、語る言葉で伝えるという点で、音楽と似ている。見えないし、一瞬のものである。しかし、天と地の間で生み出されたもの(音・言葉)である以上、それは神の創造と関わっている。名指揮者の言葉を援用するなら、「言葉を外へ連れ出す」=「言葉を通じて永遠の世界と私たちをつなげる」ということになろう。
そういう視点で見るなら、次の言葉が色鮮やかに私たちに迫ってこないだろうか。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1~3)
ピアニストが「音」を響かせることによって、「永遠(音)を外へ連れ出す」のだとしたら、説教者は「言葉」を語ることによって、「永遠(ことばなるキリスト)を私たちの世界に連れ出す」ことにならないだろうか。
そこに思い至ったとき、映画もクライマックスとなり、素晴らしい演奏とそれを弾く(演技をしている)松岡の顔がアップになる。私の中で、心から湧き上がる「言いようのない喜び」がはじけた瞬間であった。
映画「蜜蜂と遠雷」。宗教的な、恐ろしく宗教的な作品として昇華していく。同時に、これを製作したのは当然「人間」である。ピアノ演奏もまた人の業であり、クラッシック音楽という一ジャンルを生み出したのも先人たちの業である。そういう意味で、誰が観てもさわやかな感動を得られる人間賛歌ともいえよう。
説教者として語ることが、いつしかルーティーンのように感じてしまっている牧師たちにこそ観てもらいたい傑作である。
■ 映画「蜜蜂と遠雷」予告編
◇