エルトン・ジョン。言わずと知れた現代音楽の大御所である。彼の名前を知らない若い世代も、ディズニー映画「ライオン・キング」(1994年)のテーマソングは知っているだろう。あの楽曲を手掛けたのがエルトン・ジョンである。40代から50代の私のような世代にとっては、英国のダイアナ元皇太子妃が事故死したときに彼が歌った「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」に親近感を抱くだろう。
昨年の「ボヘミアン・ラプソディ」の成功が、音楽伝記映画に新たな光をともしたことは否定できない。もちろん映画は製作期間が平均4年といわれているから、「ボヘミアン・ラプソディ」の成功を受けて本作「ロケットマン」が作られたわけではない。しかし、一般の観客は一連のジャンル映画として鑑賞することを期待するだろう。
奇しくも「ロケットマン」の監督であるデクスター・フレッチャーは、「ボヘミアン・ラプソディ」を完成間近で投げ出したブライアン・シンガー監督の後任として、ノンクレジットで完成させた人物でもある。否が応でも両作は比較されてしまう。そのことをフレッチャー監督自身もよく知っていたのだろう。冒頭から、「ボヘミアン・ラプソディのような映画を期待してはいけませんよ」とばかり、とんでもない笑いのセンスで観客の期待を裏切ってみせる。
本作には、いろいろな見方ができるであろう。音楽好きな人からすると、エルトン・ジョンの楽曲秘話や彼の作品の素晴らしさを再確認するために劇場へ足を運ぶことは十分あり得る。一方、コアな映画ファンとしては、主演のタロン・エガートンの熱演に期待し、彼の出世作「キングスマン」シリーズからどれだけ成長したのか、を目の当たりにしたいということにもなるだろう。
しかし本作の肝の部分は、どうもスクリーンに映し出された音楽や俳優の素晴らしさだけでは測りきれないようだ。フレッチャー監督はとあるインタビューで、「これはエルトン・ジョンの記憶を映画化したものだ」と述べている。つまり、史実的な考察やドキュメンタリー的な方向性を本作は持っておらず、むしろ主人公であるエルトンの「主観的な自分史」をスクリーンで展開しているということなのである。
考えてみれば、フレッチャー監督の前作となった「ボヘミアン・ラプソディ」で最も批判を浴びたのは、エイズにかかったフレディ・マーキュリーがそのことをメンバーに告白したタイミングが、史実と異なっていたことである。映画の中では「ライブ・エイド」の前であったが、実際はライブイベントの後であったらしい。これを「映画的な演出」か「虚偽の事実」かで、前作の評価は分かれた(ちなみに私は大いに気に入った派であるが・・・)。
その点、「ロケットマン」は史実から離れ、むしろエルトンの「脳内事実」を映像化しました、と公言しているため、批判を受けることはない。そう思って観るなら、あの空中浮遊のシーンは傑作だろう。こちらの気持ちもあのシーン同様に浮き上がり、一気に「エルトン・ジョン」フリークになってしまう!
さて、本作をどう観たか? 彼の主観に基づいているとあえて公言することで、逆に見えてくるのは、彼の内面と世界観である。そこから敷衍(ふえん)して考えるとき、フレディ・マーキュリーにも通じるLGBTの問題が透けて見えてくる気がする。
どうもセクシャルな問題で悩む人の特質の一つとして、家族、特に両親との関係が芳しくないパターンが見受けられるとは考えられないだろうか。彼らはいわゆる「毒親」への対処の一環として、多岐の選択肢(暴力的反抗、非社会的言動、ひきこもり、薬物依存など)から、同性に引かれるという性向を獲得していったと考えることはできないだろうか。つまり、LGBTとは後天的な性向であり、決して本人の堕落や先天的な罪性による成れの果てではなく、圧倒的に不利な状況の中で、自らを必死に守ろうとした不可避的な対抗措置の一つであった、とする見方である。
もちろんこれを定式化することはできない。また、「毒親」への対処法として、セクシャルな方向だけに進むわけではないし、そもそも「毒親」に定義などできない。だからあくまでも現段階では個人的な試論でしかない。筆者はLGBTの専門家ではない。神学的にこれを精査するとか、心理学的、生物学的に考察を加えるとか、可能ならそういった人たちからの意見を拝聴したいが、あくまでも今回は「一人の牧師」として出くわした事象や、鑑賞したセミドキュメンタリックな映画に依拠した帰納的考察でしかない。
奇抜なコスチュームで現れたエルトンが、自身の過去を語るというスタイルで映画は進む。そして彼の葛藤があらわになっていく。それは両親に愛されず、また自分に自信を持てない生き方をせざるを得なかったということである。そして彼は自らを「ホモ・セクシャル」と位置付ける。映画の随所に、両親への素直な思慕と同時に歪んだ悲しみ、怒りが語られている。それはまるで一滴の真水を求めて海水を飲み、さらなる渇望感を得てしまう、そんな矛盾した行為として描かれている。彼はそのアンビバレントな感情をそのまま吐露し、それが奇抜なコスチューム、破天荒な言動、そしてこれらとはまったく異なる卓越した音楽性となって表出されることとなる。
私たち市井の人々は、彼の音楽性のみに目を留め、彼を尊敬しあがめまつることになる。人々が自分の一側面に偏った評価しかしないというのは、さぞつらいことであろう。そのことは、映画を観るとよく分かる。
本作は、エルトン自身にとってのセラピーとして機能している。彼がつらい過去を告白し、それを客体化することで、負の感情を昇華させ、まだ見ぬ未来に向かって一歩踏み出す勇気が与えられるのだ。一種の「箱庭療法」といってもいいだろう。
そう考えると、昨今LGBTを「問題」として教会が取り上げること自体が「問題視」される風潮に対し、教会側がきちんとしたレスポンスを提示できることになる。キリスト教界が社会との接点を見いだすこともできるようになるだろう。本作「ロケットマン」は、単なるミュージカル伝記ドラマという域を超え、多くの示唆を私たちに与えてくれる作品だといえる。
男性同士の交わりなど、かなり「攻めた」表現があるため、子どもの鑑賞には十分注意を要するが、避けては通れない親子関係の問題を描いているという意味では、一人でも多くの教会関係者が鑑賞できたらいいと切に思う。
■ 映画「ロケットマン」予告編
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