通常、映画を観たら、その感動がなるべく新鮮なうちに、すぐにでもレビューを書きたいと考える。しかし本作「ジョーカー」だけは別だった。決して面白くなかったとか、噴飯ものの内容だったというわけではない。むしろ逆である。
確かに、世界3大映画祭の一つであるベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を獲得しただけのことはある。上映時間の約2時間、これでもかというくらいの緊張感がみなぎっているし、一瞬たりとも飽きさせない。私も食い入るようにスクリーンを見入ってしまった。
だが、である。そうだからこそこの映画は劇薬となる。現代のさまざまな不条理や差別、そして社会構造的な歪みを見事に再現している。そして、その暗黒の世界で必死に生きようともがき続ける本作の主人公アーサーの姿は、観る者を共感させるに違いない。一部の富裕層を除いては。
本作は、言わずと知れたアメコミ映画のヴィラン(悪役)を主人公にした、ある種スピンオフ的な作品である。ダークナイト(闇の騎士)と呼ばれるバットマンの宿敵という役どころ。ウルトラマンにとってのバルタン星人、ゴジラにとってもキングギドラのような存在である。
アメコミ映画が子どもの手を離れ、大人の鑑賞にも耐え得るものであることを証明したのは、1989年に公開されたティム・バートン監督の「バットマン」である。その作品で、マイケル・キートン演じる少し根暗なバットマンを徹底的に笑い飛ばし、コケにしたのが、ジャック・ニコルソンが演じたジョーカーであった。その後「バットマン」シリーズは事あるごとに製作され続け、ついに2009年に決定的な金字塔的作品を世に送り出すこととなる。それが、クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」である。
この作品は、2時間半以上の上映時間にもかかわらず、体感的には1時間半程度にしか感じない傑作である。そしてこの時のバットマンの敵もまた、ジョーカーであった。演じたヒース・レジャーは、ジョーカーになりきるあまり、自らもついに薬物に手を出して、映画公開前に中毒死してしまった。
そして本作「ジョーカー」は、バットマンの宿敵ジョーカーが、どうして誕生したのか、その前日譚(ぜんじつたん)を語る物語だ。これは、ティム・バートン版「バットマン」、クリストファー・ノーラン版「ダークナイト」で守られてきた「ジョーカー像」を打ち破る企画であった。
なぜなら、ジョーカーというキャラクターは、究極の愉快犯であり、その素性は決して分からない故に、不気味かつ魅力的なキャラクターだったからである。しかし本作は、その素性を私たちにさらすことを前提として製作されている。これはおきて破りともいえるし、DC映画(2大アメコミ出版社の一つDCコミックスの作品を基にした映画)が踏襲するリアリティー路線の行き着く先だともいえるだろう。アメコミといえば、マーベル映画(2大アメコミ出版社の一つマーベル・コミックの作品を基にした映画)が世界中で大ヒットしたが、こちらはヒーローの神々しいばかりの輝きを、これでもかと誇張して描き切ることで、人びとの賛同を得た。
一方、DC映画はそうではない。どちらかというと根暗で、真面目で、それでいて観終わったときに決して爽快感は得られない。正義は必ずしもハッピーエンドを生むわけではない、という少しひねくれたメッセージを常に抱え続けてきたといってもいい。
その路線の先にこの「ジョーカー」があるとするなら、ホアキン・フェニックス演じるアーサー(後のジョーカー)は、DC映画の暗黒面を増幅させ、負の感情とメッセージを観客の心にたたき込んでくる作品だといっても過言ではないだろう。
主人公アーサーを取り巻くさまざまな問題は、私たちの現実と地続きである。貧困格差、幼児虐待、障がい者差別など、彼を襲うさまざまな問題は決して他人事ではなく、不特定多数の観客に「あなたもそうでしょ?」と訴え掛けてくるものがある。
アーサーがどうしてジョーカーになったのか――。その究極の問いに対する答えは、彼がニヒリズム(虚無主義)を体現することを選択したからである。ニヒリズムとは、哲学者ニーチェが主に言及しているが、すべての行為、活動は無に帰すという考えで、達観した者だけが辿り着く、究極の思想である(そう表現すると、すでにニヒリズムではないが・・・)。
映画の中で、このニヒリズムのヒーローは人々に担ぎ出され、まるでキリストのようにあがめられるようになっていく。これこそ、聖書が語る「反キリスト」の姿である。そして恐ろしいことに、ジョーカーになる前のアーサーを知っている私たちは、この「反キリスト」の誕生を、心の中のどこかで喜んでいる自分がいないかと思わされるのである。
これは危険な思想であり、考え方である。人々から慕われ、受け入れられ、まるで「救い主」のようにあがめられるジョーカー。実はこの映画はそんな退廃的な、反キリスト的な悪の魅力に満ちている。同時に、キリスト教が「全人類の救い」を訴えるなら決して避けては通れない問題を真正面から描いており、多くのキリスト者に挑戦状を突き付ける作品ともいえよう。
本当に聖書が語る「救い」は、貧困にあえぐ人々に届けられているのか?
神が定めた「十戒」にある「父母を敬え」は、現代においてもすべての人に通用する戒めなのか?
アーサーの場合も、この教えを当てはめることは可能なのか?
障がいのあるアーサーをさげすみ、半ば尊厳を踏みにじるような行為をしたエリートたちに、神は本当に「裁き」を与えるつもりがあるのか?
映画が突き付けてくる問いはこのようなものだ。この問いに向き合う覚悟が、私たちにあるだろうか。しかし、それらの問いに真正面から向き合わないとするなら、「全人類の救い」のために来られたイエス・キリストが私たちに与えた「大宣教命令」は成し得ないことになる。
そうであるなら、ある程度の見識と神学的知識、そして経験に裏打ちされた牧師、教会指導者たちは、この映画を鑑賞し、目の前の人々を「ジョーカー」にしない、させないために何をすべきかを真剣に話し合う機会を持たなければならないだろう。
2019年、これほどの劇薬映画はない。万人受けする映画では決してない。しかしこの存在が世に知れ渡ってしまった以上、私たちキリスト者は避けては通れない。
一人でも多くの人に、とはいかないが、ある程度耐性を持ったクリスチャン、そして教会指導者たちは鑑賞し、そこで感じたことを話し合う機会を持つべきだろう。
本作は「現在、最もアカデミー賞に近い作品」といわれている。しかし、もしアカデミー賞が万人受けする最も有効なツールであるとしたら、本作は鑑賞する人を選ぶ作品であるが故に、できることならアカデミー賞を「取ってほしくない」最高の映画である。
■ 映画「ジョーカー」予告編
◇