● 福音主義が現代的PC化する危険性
ポリティカル・コレクトネス(PC)遵守の価値観が反転しつつあるという観点から、米国の福音派そのものの今後の立ち位置を考察するなら、彼らもまた安穏とはしていられない。PCとはつまり、福音派においては、信仰箇条や聖書主義に代表される「正しさ」の総称と置き換えることも可能である。中世以後、プロテスタント黎明期には、この「正しさ」を教派ごとに追究し、そして信仰告白という形で結実させてきた。だが1970年代に、教団・教派を横に串刺しするような形で Evangelicals という集団が頭角を現わし、やがて「福音派」という集団に結実した。しかし彼らは教理や信仰告白でつながっている集団ではなく、「福音主義」といういわゆる5カ条(注)を緩やかに順守する集まりとして信者を獲得してきたのである。
いつしか「福音主義」は聖書に立脚した神学であると言われ始め、「聖書信仰」なる言葉で人々をまとめ上げるようになっていった。だがこれが今、現代的な(悪い意味での)PC化していないだろうか。
「聖書にこう書いてあるから」と言うだけで人々が納得する時代は過ぎつつある。聖書に基づき、その教えに従った説教が毎週語られる。人々がそれを聞き、その方向に心を向けているなら問題はない。だが、政治の世界ではこのPCが有名無実化し、そのことを声高に叫んでも大丈夫な風潮がここ数年で生まれてきた。事実、「やると言ったことは形にする」型の大統領が生み出され、善悪の判断はともかく、一定の結果を残すようになってきた。
福音派は従来、福音主義の立場から政治にどう関わるかを課題としてきた。だが現代においては、逆の現象にさらされていると見て取ることができる。つまり、政治の世界が福音主義を変質させるという方向性である。
本音で語り、批判されても決めたことはどんなことでも実行する為政者が登場し、誰はばかることなく「自国ファースト」を叫び続けている。そのやり方を見ながら生きた米国市民は、若い世代であればあるほど、「PCを掲げるなら、それにふさわしい現実を生み出しているか」という、プラグマティックな思想に簡単に迎合してしまうだろう。その彼らに、福音主義はPCとしての健全な機能を果たし続けることができるだろうか。
これは大いに考えさせられる実践神学的問いである。図らずも、プラグマティズムもまた米国文化がキリスト教的素養を用いて生み出した亜種である。それが決してキリスト教と交じり合うことがないと言うことはできない。プラグマティックな思想が再び勃興するなら、必ず福音派に影響を与え、福音主義を変容させていくだろう。その先に、私たちがよって立っているという意味での Evangelicals は存在し得るのだろうか。
● 米国の福音派よ、どこへ行く?
19世紀末、聖書を字義通りに捉えるということに危機が生じた。聖書批評学の誕生である。それは「聖書」という限られた空間でのせめぎ合いであったため、限定的な関心を呼ぶことにはなったが、それが国家の進むべき道を左右するほどの影響力は持たなかった。
だが1980年代の米国で、キリスト教が政治の世界へ積極的に参入するようになった。その急先鋒が福音派であり、先鋭化した宗教右派であった。そして21世紀、今度はこの政治世界で巻き起こったPC問題が、そこに深く関わってきた福音派に刃を向けつつある。今度は国家的規模の騒動に福音派が巻き込まれてしまうだろう。いや、すでに抜き差しならぬところまで歩みを進めてしまっているのかもしれない。そのまま進むことで、福音派は自らの素朴な福音主義を瓦解させることにならないだろうか。まさに「米国の福音派よ、どこへ行く?」である。端的に言うなら、「福音主義とトランプ現象は、果たして整合性を保ち続けられるだろうか」ということである。
エルサレム問題、最高裁判事の任命で、トランプ大統領に拍手喝さいを送り、メキシコの壁問題では見て見ぬふりをして人道的支援のみに専心する現在の米国の福音派のありさまは、もし世論調査の結果の通りにトランプ大統領が再選するなら、さらに深くこの政権に、いや、政治世界に進出していくことになるだろう。だがそれは、彼ら自身の実力や資質と、政治の世界で期待されることとの間に大きな亀裂を生むことにつながる危険性を秘めているといえよう。
トランプ政権支持、共和党支持、そして聖書的預言の実現、という未来は、確かに一定数の信者を福音派教会に集わせることになるだろう。もしかしたら一部のメガチャーチは、「ギガチャーチ」や「テラチャーチ」と化すかもしれない。しかしそれに伴い、福音派の本質が Evangelicals から乖離し、福音主義の本質をプラグマティックに変質させていくのだとしたら、これは建国以来、ピューリタン的資質で米国を支え続けてきた Evangelicals の溶解に他ならない。
● ホームラン狙いではない「好打者」としての福音派
大変僭越(せんえつ)なことではあるが、米国の福音派が進むべき方向性を一つのたとえを用いて示唆してみたい。
「米国の福音派は、一発狙いのホームランバッターになる必要はない。むしろストライクゾーン(聖書・福音主義)を常に意識しながら、あらゆる変化球(政治的・社会的変化)に対応できる好打者を目指すべきではないか」
このことは、翻って日本の福音派にも言えることである。奇しくも2019年春期の日本福音主義神学会西部部会は、東京基督教大学学長の山口陽一氏を主講演者として、天皇制とキリスト教について考える機会を持った。筆者もそこに参加し、大いに刺激を受けた。これは米国の福音派が抱えるものとは異なるトピックスである。だが異なってはいるものの、自国特有の問題に福音主義に基づいて向き合うという意味では、同じ姿勢だといえよう。
当たり前だが、日本の政教分離は、米国のそれとは異なる。そして、米国には日本のような天皇制はない。だから各国の福音派がそれぞれの立場から責任を持って向き合うことが求められるのだ。(終わり)
注: 聖書無謬(むびゅう)、処女懐胎、十字架の犠牲による罪の贖(あがな)い、キリストの復活、再臨。
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