終戦3日後に、横浜の教会内で射殺死体で発見された戸田帯刀(たてわき)神父(当時47)の事件を、長年にわたって追ってきたジャーナリストの佐々木宏人氏(カトリック荻窪教会会員)が6月20日、毎日新聞東京本社1階で開かれた「毎日メディアカフェ」で講演した。「神父射殺事件を取材して見えてきたもの」と題し、取材を始めた経緯や事件の概要を説明。事件から、戦時中の宗教弾圧や日本のキリスト教界の戦後体質、事件が持つ今日的意味などを語った。
毎日メディアカフェは、毎日新聞社が東京本社1階の一室を開放し、「読者とともにつくる新聞」をコンセプトに開催している企画。現役記者が旬の話題についての取材内容を語る「記者報告会」や、NPO、企業などが企画する各種イベントを年150回ほど開催している。佐々木氏は、経済部長や広告局長、名古屋代表などを歴任した同社のOBで、この日は通常よりも多い約50人が参加した。
現代であれば、1面掲載か社会面トップの事件
事件は終戦3日後の1945年8月18日夕、横浜市保土ヶ谷のカトリック保土ヶ谷教会で発生した。当時、横浜教区長であった戸田神父が、銃声と共に右目を銃で撃ち抜かれた状態で倒れているのが見つかった。憲兵服姿の男の目撃証言もあり、現場からは憲兵が使用していた型の薬莢(やっきょう)も発見される。戸田神父は事件の2日前、海軍の港湾警備隊に接収されていた横浜市内の別の教会に一人で行き、返還を要求して警備隊を激高させる出来事を起こしていた。そのため、警備隊の怒りが憲兵に伝わり、逆恨みされて銃殺されたというのが定説となっている。
「現代であれば、1面に掲載か、社会面のトップ記事になるような事件」(佐々木氏)だが、当時、憲兵の犯行であれば警察は手を出せなかった。事件から約10年後には、犯人らしき男が別の教会に自首しに来るが、教会は詳細を確認することもなく不問にしてしまう。そのため、事件は迷宮入りし、カトリック教会内でも知る人は少なく、戸田神父の死は長年にわたって「封印された殉教」となっていた。
命を懸けて平和を語った戸田神父
佐々木氏は、戸田神父の故郷である山梨県で甲府支局長を務めていた1980年代に事件を知った。しかし、現役時代は時間がなく、詳しく調べることはできなかった。本格的な取材を始めたのは定年退職後。自身も洗礼を受けてカトリック信者になったことや、国指定の難病を発症したことが契機となった。また、『根っこと翼―皇后美智子さまという存在の輝き』などの著者である従姉妹の末盛千枝子さんから、「このことを書くために神様に呼ばれたのよ」と言われたことも背中を押した。
事件のあった保土ヶ谷教会の敷地内には現在、戸田神父を記念する石碑が立っている。そこには、「私は自分の生命にかけて 日本のため 世界平和のために働きます」という言葉が刻まれている。これは、戸田神父が事件前年に横浜教区長に就任した際に語った言葉だ。佐々木氏によると、戦争真っただ中であった当時、敗戦を認めることにつながりかねない「平和」という言葉を公の場で口にすることは、かなりの勇気が必要だった。戸田神父は、横浜赴任前の札幌教区長時代には、戦争の行方に懐疑的な発言をしたことを仲間の神父に密告され、逮捕・拘留(後に無罪となり釈放)された経験がある。そうした中で語った言葉だけに重みがある。
佐々木氏は、バチカン秘密資料館にも資料請求し、計11枚3種類の文書を入手している。いずれも事件発生1週間後に、日本からバチカンに送られたものだった。それらの資料は、事件の定説については一切触れていなかったが、事件発生当初、3日間拘留された神学生が存在したことが書かれており、新事実も明らかになった。
佐々木氏は、戸田神父がリベラル思考の持ち主だったと考えている。山梨県の寒村出身だが、上京して開成中学校に進学。カトリック本所教会(墨田区)で洗礼を受け、神父を目指してローマのウルバノ大学へ留学。帰路には、兄がいたカナダを訪れており、こうした海外生活は国際感覚を身に付けるために役立ったはずだ。さらに帰国後は、喜多見(世田谷区)、関口(文京区)、麻生(港区)の各教会で主任司祭を務めるが、いずれも上流層が多く住む地域。こうした経歴や環境から、戸田神父のリベラル思想が形成されていったと佐々木氏は見る。
戦後、指導者の責任が問われなかったキリスト教界
戦時中の宗教弾圧については、上智大学生靖国神社参拝拒否事件などに触れ、政治が宗教を取り込んでいった当時の状況を紹介。ホーリネス系の牧師や信者ら134人が逮捕され、うち7人が獄中死した弾圧事件や、憲兵のおとり捜査で逮捕され、獄中死したフランス人司祭のシルベン・ブスケ神父の事件などを取り上げた。しかしこうした中、教団側はプロテスタント、カトリック共に、戦闘機献納運動を展開するなど、戦争に協力していった。
戦後、政財界では公職追放が行われ、戦時中に指導的立場にあった人たちは一定の責任を取らなければならなかった。しかし、キリスト教界ではそれがなかった。戦時中、日本基督教団(プロテスタント)のトップである統理者だった富田満は、戦後も東京神学大学理事長などの要職を歴任。日本天主公教団(カトリック)の代表者の立場にあった東京教区長の土井辰雄大司教は戦後、日本人初の枢機卿となっている。そして、各教団が戦争責任を認めたのはいずれも2人の死後だった。佐々木氏は、戸田神父の事件についても、自首してきた男を逃したことの背景に、カトリック教会の自己保身から来る理由があったのではないかと推察する。
「信教の自由」脅かす憲法改正への懸念
戸田神父射殺事件の今日的意味では、憲法改正への懸念を挙げた。日本では、憲法改正の議論が持ち上がる場合、多くは戦争放棄などを規定する9条が焦点となる。しかし佐々木氏は、信教の自由や政教分離の原則などを定めた20条の改正を心配する。
現行の20条3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」としている。しかし、自民党の改憲草案では、「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」と、「ただし」以下の内容が新たに追加されている。
良識的に考えれば、問題となるような内容ではないように見える。しかし、大日本帝国憲法は、信教の自由を定めた第28条を「日本臣民は、安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて、信教の自由を有する」としており、これが宗教弾圧を招いた。「限りにおいて」というような表現は、解釈次第で範囲を変えることができるからだ。
こうしたことから、佐々木氏は、信教の自由を脅かしかねない憲法改正が現実味を帯びる時代になってきたと懸念する。しかしその一方で、戦時中の宗教弾圧は思想弾圧に比べると知られておらず、各宗教間の互いへの関心は極めて低い。佐々木氏は、宗教間の連携が必要だと訴え、戸田神父の事件がこうした問題を考えるための一助になればと語った。そして最後に、第2次世界大戦中に7年間強制収容所に収容されたドイツのプロテスタント神学者、マルティン・ニーメラーによる言葉を引用した。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声を上げなかった。
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声を上げなかった。
私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声を上げなかった。
私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人を連れて行ったとき、私は声を上げなかった。
私はユダヤ人などではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。マルティン・ニーメラー