1)災害の原因
2017年の九州北部豪雨で、福岡県朝倉市杷木松末(はきますえ)の山間部は9時間にわたり、気象観測史上でも最大級の集中豪雨となりました。松末(ますえ)小学校の体育館は土砂で埋まり、大きな石が乙石(おといし)川上流から流れて教室に入り込みました。しかしこの災害は、本当に防ぎきれなかったものなのでしょうか。「史上最大の降雨量では仕方がない」と諦めていいのでしょうか。ある人々は、異常気象、温暖化、警報無視を指摘しますけれど、原因は何と考えたらよいのでしょうか。
災害は、神からもたらされる場合があることが聖書に記されています。
「不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(ローマ1:18)
「光を造り、闇を創造し、平和を造り、災いを創造する者。私は主、これらすべてを造る者である」(イザヤ45:7)
このように、神は「災い」(ヘブライ語で「ラアー」)をもたらす存在と描写されています。
関東大震災(1923年)の時も、天譴論(てんけんろん)と言われますように、神が天罰を加えられたという発言があります。日本の代表的なキリスト者である内村鑑三の日記には、「呆然(ぼうぜん)として居る。恐ろしき話を沢山に聞かせられる。東京は1日にして、日本国の首府たる栄誉を奪われたのである。天使が剣を提げて裁判を全市の上に行うたように感ずる」と記されています。別のキリスト者である山室軍兵も言っています。「此度(このたび)の震災は、物慾(ぶつよく)に耽溺(たんでき)していた我国民に大なる反省を与える機会であった。堕落の底に沈淪(ちんりん)せる国民に対して大鉄槌(おおてっつい)を下したということは、大なる刺戟(しげき)と反省とを与えるに十分であった」と。また、東日本大震災直後に、韓国の有名な牧師も同じように日本人に対する天罰であったと解釈しています。
2)因果応報は聖書の教えか
「原因」と「結果」という因果関係の応報の発想と考えるより、自分のした「行為」が神の意志にどのように関連しているか、という視点で解釈するのが聖書的思惟(しい)です。たとえば、箴言12章14節「人は口の言葉が結ぶ実によって、良いもので満たされる。人の手の働きはその人自身に戻る」を、人間の行為と神との関連の側に立って解釈してみます。
「戻る」とは、ヘブライ語で「シューブ」です。シューブは「報いを与える」(新共同訳)、「報いる」(新改訳)と訳されています。聖書協会共同訳は「戻る」、口語訳は「帰る」と訳しています。つまり人間の側の行為が神によって保証、補填、発展し、完成させられるのです。さらに、聖書の中でイエス・キリストは自然災害を因果応報という応報思想で考えないように教えられました。
「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』」(ルカ13:2~5)
イエス・キリストは、災難に遭い命を失った人々について、「罪人だったからだと思うのか」「負い目のある者だったと思うのか」と問うておられます。そして「決してそうではない」と言い、因果応報の考えを否定しておられます。
「悔い改めなさい」というのは、ギリシア語の意味は方向転換しなさい、思いを変えなさい、ということです。ヘブライ語のシューブと同じです。今回の被災を天罰と考えるのではなく、視点を変えて判断する見方が私たちに必要であると思います。
3)ふるさとの生態系
私たち人間は自分勝手な生き方をして自然を破壊してきました。いわば故郷を忘れた放蕩(ほうとう)息子のような者です。一方、松末の乙石川の上流には、100年以上もかけて人々が造ってきた日本の原風景である棚田(たなだ)があります。一昨年の山津波にあっても棚田の石垣は残っています。
「ここを出て父の家に帰り」と、ふるさとの自然を慕う息子にとり、帰るところは森です。森であるエデンの園には、「命の木」と「善悪の知識の木」があったと聖書の創世記に書かれています。森林を守るか、道路、トンネル、ダムを造るかの迷いを人間は繰り返してきました。全国各地の農家の人たちは、シカが増えて困っています。「命の木」とは、森の苗を大切にし、自然の「生態系」を大事にしてはじめて成り立ちます。
一方、「善悪の知識の木」とは、自然を支配するヒトの「生命」を大切に考えます。つまり、ヒトの生命を維持するためには自然界の動植物を平気で殺(あや)めます。ヒトの医療、寿命、生活を優先するために、動物実験で小動物の生命を奪ったり、毛皮にしたり、狩猟を趣味にしたりしても、良心の呵責(かしゃく)が少しも共振しないのです。
たとえば森林が多い兵庫県でも、シカの数をどのように減らすかがよく話題になります。山から人里へ動物が餌を求めて下りて来ます。すると「善悪の知識の木」の視点から、シカの生命は何も考えず、獣害として駆逐するのです。人間が王様です。しかし、ヒトは霊長類の頂上である故に、他の動物より優れていると見なしてよいのでしょうか。聖書には「人の子らの運命と動物の運命は同じであり、これが死ねば、あれも死ぬ。両者にあるのは同じ息(ヘブライ語で「ルーアッハ」、「霊」を意味する)である。人が動物にまさるところはない。すべては空である。すべては同じ場所に行く」(コヘレト3:19)とあります。
聖書の価値観と異なり、西欧の思想は自然を征服・抑圧し、損なってきました。自然の「生態系」か、それとも人間の「生命」かと、どちらを先に考えるべきか二元論で考えてはいけません。神戸国際支縁機構が掲げる「田・山・湾の復活」とは、両方を考えながら、みんながそうだとうなずく道を開きます。人間は自然と和解し、他の生き物と一緒に「縁」「つながり」「共感」を持ってはじめて、自然と「共生」していくことができます。従って、ボランティア道は人間と自然をつなぐ和解の使命があります。(続く)
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