横浜バンドの押川方義(おしかわ・まさよし)らが創設した宮城学院女子大学・大学院の2017年度キリスト教教育特別集会が先月14日に開催された。神戸国際キリスト教会牧師の岩村義雄氏による「石の叫びに敏感であろう」と題する講演に、780人の学生らが耳を傾けた。
岩村氏は、3代目のキリスト者として生後すぐにカトリック聖イグナチオ教会で幼児洗礼を受け、堅信礼も受けたが、やがてエホバの証人として長老にまでなる。しかし、その後、脱会して神戸で牧師の働きを始めた。1995年の阪神淡路大震災後、被災者支援活動に取り組み、2001年には神戸国際支縁機構を設立。東日本大震災以降、毎月ボランティアとして被災地に向かう。また昨秋、共に労してきた妻カヨ子さんを亡くしたことをきっかけに「カヨ子基金」を創設し、海外の被災地で親や住居を失った子どもたちを継続的に支援している。
以下が岩村氏の講演の内容。
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強さと自己責任を要求する現代の日本社会では、弱い人や貧しい人に対する無関心の空気が形成されている。無関心は愛の反対語。私たちは今、愛が冷えた時代を生きている。
こういう場面を想像してほしい。目の前の池で溺れている人がいて、どんどん沈んでいく。もしそういう場面に居合わせたら、必死で行動するのではないだろうか。
実は、それくらい緊迫した状況が今、各被災地に見られる。親を亡くした子どもたち、仮設住宅でのひとり暮らしのお年寄りなど、宮城県だけでなく、地震のあった熊本県や大分県にもいる。私たちはこういう現実を放置できるだろうか。
「これでも心が痛まないのか」という、私たちの胸に突き刺さる叫びが至るところで聞こえる。イエス・キリストは「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と言われたが(ルカ19:40)、「石の叫び」は今や世界各地に聞こえる。
日本社会では、5人ないし6人に1人の子どもが貧困状態にあるといわれている。裕福な家庭と貧しい家庭との格差が拡大しつつある。こういう現実の中で抑圧されている人々の「これ以上、生きていられない」という呻(うめ)きと「石の叫び」が聞こえてくる。
こうした中で、互いに支え合うこともある。そのことを実感させられたのは、2度にわたってベトナム水害ボランティア(2016年11月、2017年2月)に行った時のことだ。高齢のみすぼらしい物乞いが料金の安い屋台で食べている客たちの近くに来て施しを求めると、そっぽを向く人はおらず、わずかでも与えるのだ。他の物乞いが入ってきても、やはりみんな要求に応じる。店は混雑し、忙しいにもかかわらず、店員たちも物乞いを追い出そうとしない。こういうことは拝金主義の現代の日本人には理解できないだろう。
「石の叫び」に敏感な者といえば、イエスのことが思い浮かぶ。イエスは自分のことをこのように言った。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:29)。「柔和な」(プラウス)という語は、「貧しい、みすぼらしい」を意味する。「謙遜な」(タペノイス)も「(身分の)低い、卑賎な、貧しい(ため見下されている)(社会的、精神的に)圧迫されている」という意味だ。
皆さんはイエスについてどのようなイメージを描くだろうか。少なくとも、金髪の長い髪、青い目、真っ白い肌、温厚で「柔和な」「謙遜な」顔というのは、イエスの実像からは程遠いと考えられる。パレスチナのユダヤ人としてイエスのことを思い浮かべると、黒い髪、黒い瞳、褐色の肌、さらにみずぼらしい、貧しいおっさんの顔だ。
マザー・テレサはインドに来て、道で出会う瀕死(ひんし)の人たちに接し、打ちのめされ、自分自身もイエスと同じように貧しくなった。今まで見えていなかったものが見えてきた。貧しく小さくされた人々と共に生きるキリストと共苦するようになった。
イエスが故郷のナザレにある会堂で朗読したイザヤ書61章1節には次のようにある。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」
「良い知らせ」すなわち「福音」は、貧しい人たちと共に生きることを意味する。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)というイエスの言葉は、そういう福音の表明でもある。
ところで、路上生活者は世界中にいる。神戸にも仙台にも。路上生活者たちのために神戸国際支縁機構では、炊き出し活動を2014年4月以降、休まずに継続している。
路上生活者は、家がないホームレスというだけでなく、家族や身寄り、親戚もないファミリーレスでもある。つまり、人と人との関係が切断されて孤独なのだ。さらに、路上生活者は希望がないホープレスでもあるため、ホームレス、ファミリーレス、ホープレスという三重苦を叫んでいる。
炊き出し活動は、ねぎらわれて「ありがとう」と言われるために行うものではない。ボランティア道に仕える者は、たった一食を提供して思い上がるのではなく、公園で共食して苦しみを分かち合う。
「石の叫び」に対する共感は、共に苦しむことを伴う。神戸国際支縁機構の「縁」は、そのような水準の「共苦」とつながっている。「共苦」はまた「苦縁」でもある。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(ヤコブ1:27)
現行の成長至上主義から脱却しないと日本は取り返しがつかなくなる。グローバリゼーションを追い求め、海外における安い労働力、資源獲得、原発輸出といった成長戦略は限界に来ている。
いずれにせよ、危機の時代を生きる私たちは、無関心を装うわけにはいかない。時代状況を見つめ、熟考し、なすべきことを実践していく皆さんの思いは、貧困であえぐ孤児たちや痛めつけられた人々の心に福音として届けられるだろう。
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「カヨ子基金」の問い合わせはホームページから。