7月16日(日)、2台の車で神戸を出発し、翌朝午前4時に朝倉市杷木(はき)中学校に到着しました。10日前の第1次ボランティアの時は、福岡県筑紫野市から大分県日田市に走る国道386号沿いは泥で埋まっていましたが、今回、原鶴温泉付近はアスファルト地が見えるようになっていました。しかしまだ、茶色くなった水田、壊れたグリーンハウス、積み上げられた杉など、被災の大きさが各所に見られました。
さっそく、校舎と体育館を結ぶ通路近くの駐車場に、大鍋類、プロパンガス、食材を降ろし、午前5時から朝食のけんちん汁約200食分を作り始めます。避難生活をしている方たちが一番所望されるのは温かい汁物、新鮮な野菜、飲料水です。幼い頃に阪神・淡路大震災を経験したボランティアが来ているといううわさが広がっているせいか、被災者の皆さんが快く、明るく、感謝の気持ちで接してくださいます。
体育館で小島重美さん(69歳)と再会しました。小島さんは杷木白木谷(はきしらきだに)に住んでいましたが、警報もなく、突然の土砂崩れに遭遇しました。妻の初子さんは1階でペットの世話をしていて濁流にのまれ、1キロメートル先まで流されました。1日半後、遺体が発見され、DNA鑑定で本人だと判明しましたが、遺体の損傷がひどいため、一目見ることも許されませんでした。「会わせてほしかったけんど、あきらめにゃならんとば」と寂しそうに語られます。荼毘(だび)に付して骨になってから対面という具合でした。2階にいて助かった小島さん自身も手足を負傷していました。
朝食後、寒水(そうず)にお住まいの伊藤千恵さん(81歳)にお話を聞くことができました。寒水の15、16戸は流され、亡くなった方や、まだ見つかっていない方がおられるとのことでした。
「大きな杉がすごい音を出して濁流と共に降ってきたのよ」
外材の輸入によって山の杉が売れなくなったため、枝打ちや間伐もせず放置されたままになった山林では、日の当たらない地面に何も育ちません。杉の代わりに、斜面を削って日本一の柿の生産地になったものの、大地に雨の水はしみ込みません。根の浅い木々が山崩れを助長しました。「自然を大切にしなくなったから、全国どこでも起こり得る人災」と語る言葉には重みがありました。
樋口喜寿江(きずえ)さん(76歳)も、「杉林の滑落、崩壊、土砂崩れは人災」と言われます。地元の人たちは、郷土が手入れされないのを見るたびに心が痛み、「いつか大変なことが起こるのでは」という不安がついに現実のものとなったことを残念に思っています。
石川幸夫さん(59歳)は寒水の借家住まいでした。「杉林の根ざらい(下草刈り)もせず、自然をなめてかかったからだ。山を大事にせず、お金もうけに走ったことが、このような災害をもたらしたんだ」と語ります。
昼食を提供して片付けた後、ボランティアのメンバー6人で、伊藤さんたちが住んでいた寒水に行くことにしました。道路が川となっているため、松末(ますえ)と違い、メディア関係者もほとんど足を踏み入れていない地域です。杷木中学校から全車通行禁止の看板の横を通り抜けて徒歩で向かいます。皆さん、長靴をはいています。
避難所のすぐ近くなのに、こんなに豪雨の爪痕がひどいところがあるとは誰も想像できないほど、家という家は天井ぐらいまで土砂で埋まっています。車も転倒していたり、あめのようにへし曲げられていたりして、上半分しか地表に出ていません。車の原形が残っていないのです。
7月18日(火)、朝食におにぎりが届きますが、おなかをすかせた避難者は午前8時過ぎまで待たねばなりません。ある時は昼食がまったく来なかったり、数が予定の3倍になったり、情報が錯綜(さくそう)しています。
地域の防災士の活躍があって初めて避難所は動いています。いろいろな避難者の生活に必要な事柄、支援物資、郵便などに臨機応変に対応するには、経験豊かな防災士が際立った働きをします。しかし、朝倉市役所の2交代で出向く担当者は引き継ぎがなされておらず、ハプニングが続出していました。防災士の度重なる願いも聞き入れてもらえません。そこで、責任が持てないと防災士は撤退してしまいました。
2006年、旧甘木市、旧朝倉町、旧杷木町の3つが合併して朝倉市が新設されました。人口は約5万2千人(2015年国勢調査)。自然災害が起こることを想定しないで合併したがゆえの弊害が生じています。統合することにより行政事務の効率化が図られるという大義名分は為政者にとって好都合ですが、統合は緊急事態の時に馬脚を現します。杷木中学校への弁当や洗濯機の不足、冷房設備の対応の遅れなどが良い例です。
災害本部がある市役所と杷木中学校とは、高速道路で言えば2つのインターチェンジもの隔たりがあります。市の中心部である甘木と杷木町とでは、生活レベルの差がありすぎます。ライフラインが途絶えたのは、杷木町など、きめ細かいサービスが手薄だったところです。松末、赤谷、寒水など、住民の声のパイプラインがない山間部に被害が大きかったことは不幸です。行政も現地に精通しておらず、地域審議会も無視されている様子が目につきました。
久保山淳子さんの3人の娘さんたちがボランティアを手伝ってくれました。19歳、小5、小3です。住んでいた寒水の3階建ての市営住宅の1階が完全に埋もれてしまいました。久保山さんは阪神・淡路大震災の時、西宮で被災し、今度は、夫の故郷の朝倉市でも被災しました。3人の娘さんたちは他の被災者に配給し終えてから、4人が寝起きしている布団を畳んでできた約1平方メートルほどのスペースで食事をとりました。
もう1人、小4の女の子も、出来上がった温かいニューメンなどを運んでくれました。他者に喜ばれることを自発的に行う動機が尊く、美しく、積極的です。親御さんも、娘の生き生きして働いている姿に、「良い機会を与えてくださって本当に感謝しています。娘のこんな姿を見れて、うれしかったです」と言ってくださいました。
第2次ボランティアでは7回×200食しか提供できませんでした。しかし、避難所の皆さんと心を1つにすることができました。被災した子どもたちがよそったり、容器を洗いやすくするためにラップを掛けてくれたり、後片づけをしてくれたりしました。被災して家がなくなり、これからどうやって生きていくかという親の不安を感じ取っている子どもたちが初めて見せた笑顔は忘れられません。
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