哲学から神学への壮大な問題提起! 御年90歳の哲学者がキリスト教を「神学する」渾身の一冊!
キリスト教は、現在のような多様な形態となるために、多くの点でその当時勢いのあった「世界観」を援用してきた。これは歴史的に見るなら「聖書」においても同じことがいえる。新約聖書のみならず、旧約聖書にも他の神話や古文書に書かれている「物語」と同じ形式のストーリーが組み込まれている。例えば、「ノアの洪水」物語など、他の宗教、異国における奇跡物語と共通する要素が見て取れる。特に旧約聖書はそのようなスペクタクル要素が満載で、例えば、天地創造や人間の創造場面など、聖書が現在の形になるまでに「どんな取捨選択をしたか」をトレースすることは、大いに学的価値のあることである。
この原則は「キリスト教会」においても同様である。例えば、原始教会と呼ばれる初代教会時代を経る中で、キリスト教は独自の展開を遂げる。この約2千年間を振り返るなら、実に多くの神学を生み出してきたといえよう。同時に、神学という分野の発展とともに、文学や哲学、政治学などとの交流を通して、多彩な質的分化も遂げてきたことになる。それが「教派(デノミネーション)」という違いとして結実したし、他の学的領域を相互補完的に行き交う流動性を生み出したともいえる。特に後者の中で、最も神学(およびキリスト教)に近い領域であると同時に、最も異なった相いれない視点を内包しているのが「哲学」である。
そもそも「キリスト教」を生み出した二大要素は、「ユダヤ教」と「ヘレニズム」である。そして後者を最も特徴付けるのがギリシャ哲学である。そうすると、神学と最も近しい領域にありながら、実は最も異なったアプローチを主導する考え方として、啓蒙主義時代に「哲学」として分離独立したことは、決して驚くに値しないことなのかもしれない。
しかし、キリスト者が「哲学」の手法で神を語ったとしたらどうなるであろうか。果たして「自分」という地点から「神」というアプリオリを語り得ることはできるのだろうか。本書はこの無理難題に挑んだ哲学者の「集大成」といってもいい快作である。
執筆者は、御年90歳(2018年当時)の哲学者、稲垣良典氏。カトリック畑を歩んでこられた稲垣氏は、執筆を依頼されたとき、「まことに手強い挑戦」と受け止め、「私の大学卒業論文以来の哲学的探究の『総括』とも言うべき」ものだと述べている。
そういった意味では、わずか260ページ余りの新書でありながら、思索の密度は濃い。さっと読み飛ばしてしまうと、数ページ、いや数行前に語っていたことすら覚えられないくらいの緻密な論理展開がなされている。事実、私は本書を購入して読み始めてから、3カ月かけて読み終えた。しかしその全貌を理解し得たかというなら、それはまだ断片的な知識でしかなく、これらが有機的に私の中で機能するためには、もう数回読み直すことが必要かもしれない。
しかし、ではそんなに難解な書物なのかというと、そうとは言い切れない不思議な魅力にあふれている一面もある。だから手放せないし、クリフハンガーのように先が気になって、険しい「思索の崖」を何とか登り切りたいと願うのである。
稲垣氏の書き下しである本書は、序論と「おわりに」を除くと7章で構成されている。最初の2章は、その後の思索の足場固め的意味合いが強い。「神とは何か」という問いの中に含まれている多くの視点、概念、また問い掛けの質について吟味している。そして第3章「知識と知恵」で、4章以降に展開する思索の果てに、私たちは何を手にするべきなのか、について語っている。これがロードマップ的な役割を果たすことになる。稲垣氏はこう語る。
結局は人間の「知る」働きは実践に秩序づけられていて、その意味ではすべての「知る」働きは「知識」に還元される、ということである。(中略)知恵に固有な「知る」働きは、「観想(かんそう)」であり、それはそれ自体が目的であるような、最高の「知る」働きとして、すべての「知識」に優る卓越性を認められていた。(70~71ページ)
当然、筆者が思索を深めていくのは「知恵」を得るためである。
その後の論の展開は、各章を列挙することでおおよそつかむことができる。
4章 自己から神へ
5章 「一」なる神へ
6章 「三・一なる神」から「人となった神へ」
7章 キリストは何者か
哲学的な思考が神学に対して影響を与えるとしたら、それは「正しい知識・理解」を求めやすくすることではない。むしろ、曖昧模糊としてつかみどころのない「各々の思い」を小さな石と見なし、それらをこつこつと積み上げることで、思索者に「得心」が与えられるのだろう。自分と神との関係(4章)から始まり、統合された単体としての神(5章)に行きつく。しかしその神が豊かな多様性と異相を持った存在である(6章)ことに思い至り、そのような神を指し示すお方としてのキリスト(7章)との出会いへと導かれていく。それはまるで稲垣版『天路歴程』だということもできよう。
「おわりに」のタイトルが「人間の尊厳のために」となっていることで、やはり最後は哲学の世界へと着地することが分かる。読み進めているときは、4章から7章まで、新たな装丁の「神学」を学んでいるような錯覚を覚えた。しかし「おわりに」に至って、これが哲学書としてしたためられたものだと気付かされる。
この「振り子のような感覚」をぜひ味わってもらいたい。多少骨のある本ではある。しかし、するめをかむように、何度も何度もゆっくりと味わうとき、その過程で今まで体験したことのないような幸福感に捕らわれるだろう。
■ 稲垣良典著『神とは何か 哲学としてのキリスト教』(講談社現代新書 / 講談社、2019年2月)
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