本書の著者、三田一郎氏はカトリック名古屋教区の終身助祭である。同時に、米ロックフェラー大学准教授、名古屋大学理学部教授、神奈川大学工学部教授などを歴任した物理学者でもある。
著者自身の言葉を借りるなら、「神を否定するかのような研究をしている人たちがなぜ、神を信じることができるのでしょうか? この素朴な疑問について考えることが、本書のテーマ」である。
現代に生きる私たちは、いつの間にか「科学」と「宗教」とを対立項と捉えてしまっている。しかしこれは決してアプリオリな前提ではなく、むしろ時代性に彩られた偏見といってもよいものである。しかし著者は、このような対立項として両者を捉える感覚が一般的であることを知って以来、「私が科学者であることと、神を信じていることが矛盾しているわけではないことを、どのように説明すればよいかが一つのテーマ」となっていったと述べている。
その成果が本書というわけだ。天体の運行に端を発する科学の進歩は、やがて中世キリスト教世界に大きな衝撃を与え、宗教改革以後の啓蒙主義の時代を経て、現代に至っている。そして今もなお、新たな科学的発見はやむことがない。一方、神を頂点とする人間の宗教性もまた廃れることはなく、モダンを超えた「ポストモダン」の時代を迎えることで、むしろ宗教は多様化し、その趨勢(すうせい)は混迷の度を増しているといっても過言ではない。
著者は、紀元前6世紀のピタゴラスの時代から、21世紀にスティーブン・ホーキング博士が宇宙理論を提唱するまでの約2500年間を取り上げ、各々の時代に科学的な発見を成し遂げた科学者の内面(主に神への信仰姿勢)と、彼らを取り巻いていた時代的環境について、7章にわたって的確に整理していく。
一読するなら、科学と宗教はまるでコインの裏表のような関係で、決して同一化することはないが、かといってまったく別物に分離・乖離(かいり)してしまうこともないことが分かる。それはまるで、時代を動かす「車の両輪」のようなものだと気付かされる。
特に面白かったのは、コペルニクスが地動説を唱えたエピソードである。彼は1510年に今までの成果をまとめて同人誌に「地動説」を公表した。コペルニクスは当時、司祭職にあったというから驚きである。しかしこれは、カトリック本部からほとんど相手にされなかった。理由は「取るに足りないトンデモ説」と受け取られたことだ。しかしこれを看過し得なかった人物がいた。それが宗教改革の火の手を上げたマルティン・ルターであった。彼は「カトリックの司祭があろうことか、聖書に反して地動説を唱えている!」と訴え、これをカトリック陣営への攻撃材料として用いたのであった。
ちなみにルターは、生涯「天動説」を真理として信じていたようである。彼が根拠としたのはヨシュア記10章12〜13節である。
主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。「日よ、とどまれ、ギブオンの上に。月よ、とどまれ、アヤロンの谷に。」 日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。
彼はこれを修辞学的メタファーとして捉えるのではなく、字義通りに捉えていた。そのため、彼にとっての真理は「天動説」ということになる。
彼の攻撃を通して、逆に注目を浴びてしまったピタゴラスの主張は、カトリック陣営にとって「対処すべき事柄」に肥大化していったのであった。
私たちは、時代を経ることで研究や物事の理解が進み、真理や隠されていた真実が明らかになる、そう受け止めたくなる。だが事実はそう単純なものではなく、科学的真理でさえも、政治的な駆け引きによってあらわになることが往々にしてあることを、歴史は示しているのである。
ルターさえ黙っていれば、その後のガリレオ裁判もなく、科学と宗教が対立項として捉えられることもなかったかもしれない――という説は、歴史の不可逆性の中に科学も取り込まれてしまうということを示す好例といえよう。
科学者が書いているから小難しい物理の法則や理論が満載かというと、決してそんなことはない。むしろ「読み物」としての面白さが満載である。私は登場する7人の科学者に愛着を持てたし、各々の神への気持ち(信仰)に対し、共感することの方が多かった。同時に、なぜ彼らが科学を志したのか、という根幹に、私が神学を志したことと共通のモチベーションがあることを見て取ることができた。
終章で著者は、自身が科学的探究をし続ける理由を次のように語っている。
(やがて)たった一つの理論で(世界を)統一的に理解できることになります。そのような理論を私は美しいと思いますし、そのような理論が成り立つようにこの宇宙がつくられていると考えると、胸が高鳴ってきます。だからこそ、この分野の研究で「神業」を見たいのです。(257〜258ページ)
著者によると、科学的探究の結果、そこに見いだされるのは科学的な法則ということになる。そしてこの法則を思いつき、それを実践し、現在まで存続させてきた存在こそ「神」なのである。だから科学者は探究をやめないし、その究極的なものに出会うまでは一見すると、神や宗教を破壊するかのような結果を提唱することになってしまう。
でもそこで思考停止に陥ってはいけないと著者は語る。なぜなら、そのような究極の法則(神など想定しなくても科学がすべてを解明できる世界)をあらかじめ設定することは、決して科学者の持つべき姿勢ではないからである。科学者とは、永遠に来ない「終わり」に真摯(しんし)に向き合い、飽くなき挑戦を続ける決意と勇気を持った者たちのことである。
そういった意味で、「科学者とは、自然に対して最も謙虚な者であるべきであり、そのことと神を信じる姿勢とは、まったく矛盾しない」と語る著者に、私も賛成である。
ぜひ一読をお勧めしたい。
■ 三田一郎著『科学者はなぜ神を信じるのか―コペルニクスからホーキングまで』(講談社、2018年6月)
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