宗教情報などを扱う米オンラインメディア「パセオス」は最近の記事(英語)で、オーストリア・ハンガリー二重帝国(現チェコ)の論理学者クルト・ゲーデル(Kurt Gödel、1906〜78)による神の存在に関する「数学的な証明」は完全に正しいものだったと主張している2人のコンピューター科学者について取り上げた。
パセオスが取り上げた2人のコンピューター科学者は、ベルリン自由大学のクリストフ・ベンツミュラー(Christoph Benzmüller)氏とウィーン工科大学のブルーノ・ボルツェンローゲル・パレオ(Bruno Woltzenlogel Paleo)氏。2人は2013年、最先端のソフトウェアを使い、神は存在するとするゲーデルの結論が、彼の立てた仮定や前提と論理的に整合することを立証した。これはつまり、ゲーデルの前提が正しければ、その結論(神は存在する)も正しいということが証明されたことである。
しかしこれによって、神の存在が完全に証明されたことになるのだろうか。いや、そうでないことは明らかだ。この2人のコンピューター科学者が証明したのは、ゲーデルの結論が、前提から正しく導き出されていたということだけにすぎない。確かにゲーデルの結論は、前提から適切に導き出されているのだろうし、彼の演繹(えんえき)法は論理的に妥当なのだろう。しかしそれは、とりわけ驚くべきことではない。何しろ、ゲーデルは単なる偶然でアリストテレス以来の偉大な論理学者といわれているのではないのだから。
ゲーデルの前提を受け入れる人は、神が存在するという結論を受け入れる以外、道はない。では、私たちはゲーデルの前提を受け入れるべきだろうか。本当に問うべきなのは、まさにその点である。この前提について、どうすれば確信を持てるのだろうか。ベンツミュラーとパレオの両氏は、この疑問については沈黙を通している。それは当然のことだといえる。ゲーデルの前提は論理的な性質のものではなく、数学的な性質のものでもないからだ。コンピューターで確かめたり、検証したりできる類のものではないのだ。ゲーデルの前提はいわゆる哲学的な前提であり、より厳密にいうなら形而上学的前提である。つまり現実の世界の根源的な性質に関する前提なのだ。その幾つかある前提のうち、あるものは、幾つかの「肯定的(positive)な」特性があることを示すものであり、他のものは、それらの特性が具体的にどのように関連し合っているかを述べている。コンピューターは、それらの前提が正しいかどうかについては一切示すことができない。
もしゲーデルの前提が、それ自体で十分に明白であるなら、それ(コンピューターが前提の正しさを証明できないこと)は問題にはならない。その場合、私たちはゲーデルの前提をそのまま受け入れるしかない。従ってその場合、神が存在することの証明は確かにあることになる。しかし問題は、ゲーデルの前提が自明ではないということだ。彼の前提を正当化できるか否かについては、形而上学者の間で激論が交わされている。例えば、それらの前提が示す「肯定的な」特性をどのように理解すればよいかという点が、十分明確なわけではない。ほとんどの場合、それらの前提は妥当だといえる。しかし逆に言うと、はっきりしているのは、せいぜいそれらの前提から生じる結論が妥当であるということくらいである。もっと控えめに言うなら、それらの前提は、神が存在することの妥当性を高めただけにすぎない。これが、神が存在することの証明と程遠いことは明らかである。
ゲーデルの論証が神の存在を証明するものではないことは、驚くに及ばない。というのは、神の存在というものは証明できる類のものではないからだ。私たちになし得る最善のことは、神の存在を合理的に論じることだけである。そのような論証が示すのは、神が存在すると考えた方が理にかなっているということである。論じることによって、理論上は神が存在することが正しくなる。こういった論証が実際に示しているのは、有神論こそ最も合理的な世界観だということである。しかしそれは、疑う余地のない確かな事実だろうか。神の存在証明になるのだろうか。答えは否である。神の存在は、そういった論証によっては証明できない。そしてそれは良いことである。神の存在を合理的に説明することは、私たちに信じるべき理由を提供してくれるが、それ以上のことはできない。これらは(神の存在の)証明にはならないが、神を信じることを合理的なものにしてくれる。このことについては、中世欧州の神学者であり哲学者であったカンタベリーの聖アンセルムス(Anselm of Canterbury、1033〜1109)が見事に描写している。“fides quaerens intellectum” つまり「理解を求める信仰」である。
神の存在に関するゲーデルの論証は、存在論的論証の範疇(はんちゅう)に入る。存在論的論証は純粋な思考から始まるものの、感覚的な体験には入り込まない。存在論的論証は、神に関する具体的な定義付けから始まる。例えば、「神以上に偉大なものを想像することはできない」とか、「神は最大限に完璧な存在である」というアンセルムスの定義だ。神の存在は、そのような定義付けによって始まり、特定の前提を用いることによって厳密で論理的な推論を経て論じられてゆく。
歴史上で最初の存在論的論証は、アンセルムスによってもたらされた。彼の論証は、厳密な新プラトン主義という領域においてのみ説得力を持つ。ゲーデルの論証は、新プラトン主義を必要としない。従ってアンセルムスの論証とはかなり異なるタイプの存在論的論証だといえる。近年、ゲーデルの論証は、カナダ人哲学者のアレクサンダー・プルス(Alexander Pruss、44)によって大幅に改善された。プルスは、より説得力のある新しい前提を提示している。
先述したとおり、ゲーデルの論証は現実の世界の一般的な性質に関する形而上学的前提に基づいている。ゲーデルはその後、神が存在するという結論を導き出すために様相論理(modal logic、可能性と必然性の論理)を適用するようになった。それ故、その論証は数学的な論述法を取っていない。当然である。数学の定理の集合は、神が存在するという結論に至らない。せいぜい宇宙の構造が数学的に説明可能である理由を合理的に論じるべきだと主張するだけである。そして最善の説明としては、宇宙は理性を持つ全能なる創造者によって創造され、その創造者は、私たちが理性によって理解することを望んでいたということくらいである。しかしこれもまた、神の存在証明にはならない。
神の存在に関する論証には、例えば「神の存在に関する様相認識論的論証」(英語)など、様相論理を用いた他のタイプの論証もある。これらの論証も神の存在の可能性を高めるもので、特にさまざまな宇宙論、目的論、道徳的、審美的論証をこのセットに加えると、より一層神の存在の可能性を高めるものとなる。今日、私たちは、神の存在を強力にサポートする合理的な論証の積み重ねを持ち合わせているといえる。しかしそれは、誤りのない確かな事実だろうか。神の存在証明になり得るのだろうか。答えは明らかに否である。私たちは数学と論理において証拠を提供するだけで、哲学においてではない。
最後に、ゲーデルの論証が論じているは、一体いかなる神なのだろうか。それはキリスト教の神だろうか、それとも別の一神教の神だろうか。より正確に定義付けるなら、ゲーデルの論証の結論は、あらゆる「肯定的な」特性を有する何者かが存在するというものだ。これは、(偶然ではなく)必然によって存在するところの完全な存在である。言い換えると、現実の総体(宇宙)の土台であり根源である存在のことである。さて、そのような存在がいるとすれば、確かに神と呼ぶことができる。しかしこの神がキリスト教の神だと言うには、さらなる努力が必要である。ゲーデルの論証は、そこで論じられている神が、キリスト教が何世紀もの間、実際に証ししてきた神であることを示すものではない。それは有神論を肯定するための論証であり、キリスト教自体を肯定するものではないのである。
(文・エマニュエル・ルッテン[Emanuel Rutten]=アムステルダム自由大学・人文科学部哲学科研究員兼講師)