「待合場所は上野公園の西郷さんの銅像にしましょう」。私は東京台東区浅草で生まれ育ち、学生時代までそこを離れたことはなかった。地方から訪ねてくる人があると、いつも台東区上野駅近くにある西郷さんの銅像を待合場所にしていた。でも、日本史にあまり興味がなかった私は、西郷さんにもまったく関心がなく、幕末の維新の志士の一人だというくらいの認識しかなかった。
10年ほど前に鹿児島市で行われたカトリック・プロテスタント合同伝道集会に講師として招かれたときに、主催者の方から「実は、西郷隆盛はクリスチャンだったのです」と言われてびっくりした。それがきっかけで、「西郷隆盛とはどんな人物だったのか?キリスト教禁制時代に、どうして彼はクリスチャンになったのか?」などに強い関心が湧いた。そして、西郷隆盛について調べていくうちに、わずか20数年間の「維新」という出来事が、日本の歴史において革命的な意義を持っていたことに目が覚めた。
内村鑑三はその著作『代表的日本人』の中で、西郷隆盛を第一人者として紹介している。「1868年の日本の維新革命は西郷の革命であったと言っていいのではないか」とまで書いている。「数ある維新の志士のなかで、維新の運動を始める原動力である天の法にもとづき運動の方向を定める精神を持っていたのは西郷隆盛だけであった」というのである。
その精神とは、西郷隆盛が座右の銘にしていた「敬天愛人」である。聖書を要約すると、「心を尽くして天の父を敬い、隣人を自分のように愛する」という「敬天愛人」の一語に尽きる。これはモーセの十戒の要約でもあり、キリストの言葉の集約でもある(マタイ22:37~39)。
「敬天愛人」を西郷は次のように解説している。「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから、何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」(西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓)。
なんと、西郷は聖書を愛読してその精神を実践したばかりでなく、民衆に聖書を教えていたといわれる。日本最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会で秘密裏に洗礼を受けていたという証言もある。
明治維新の最高のクライマックスは、1868(慶応4)年3月15日の「江戸城無血開城」である。これは、官軍による江戸総攻撃の前日と前々日に行われた官軍代表・西郷隆盛と旧幕府側代表・勝海舟との交渉において、西郷の「攻撃取りやめ最終決断」により実現したものであった。もし2人の交渉が決裂していたら、江戸全体が火の海となり、一般民衆を含む数え切れないほどの死傷者が出たに違いない。
すでにキリスト教の大きな影響を受けていた勝海舟は、咸臨丸で米国に渡ったときには、オランダ語の賛美歌を日本語に翻訳し、また、しばしばキリスト教会の礼拝に出席していた。勝は、後に米国人宣教師一家を海舟邸に同居させるなど、クリスチャンを特別に優遇し、晩年にはキリストを信じる信仰告白をしている。
西郷隆盛と勝海舟の2人が維新革命の大立役者であったことは、世界の歴史を支配しておられる天の父が、日本の歴史に大きく介入してくださっていたしるしである。そして、維新の志士たちの多くがキリスト教の影響を強く受けていたことを考えると、明治維新こそは、徳川300年のキリシタン迫害を乗り越えた、聖霊の働きによる日本最大のリバイバルの一つだったのではないだろうか。
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