前回お伝えしましたように、ミドラシュの解釈によれば、7章1節~9章6節がコヘレト書の第2部であり、今回からその第2部が始まります。第1部の冒頭である1章の本文(1章1節は編集句なので、本文は1章2節から)の書き出しと比べると、随分改まった感じがします。1章の本文は「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という、およそ絶望的な書き方で始まっていました。それに対して第2部の冒頭である7章は、原文によりますと、「トーブ / טוֹב」という言葉で始まっています。今まで何度かお伝えしてきましたが、トーブは空しさ(ヘベル / הֶבֶל)の対極に置かれている言葉です。この語は「良いこと」「幸福」「満足」と訳されます。
7章1~10節には、トーブが8回記されていますが、1節の「香油(良い油・良い=トーブ)」を除く7回は、実は「トーブ ~ ミン ~ / ~ טוֹב 〜 מִן」という構文を構成しています。この場合のトーブは、「~は~に『まさる』」「~は~よりも『より良い』」と訳されます。比較級のトーブということができましょう。最上級ではないわけです。しかしながら、比較級のトーブという言葉が7回繰り返されることによって、第2部である7章は始まります。「空しい」が繰り返されることによって始まった第1部と比べると、随分雰囲気が違うのではないでしょうか。
1~10節にある7つの比較級のトーブを、4つ(1~7節)と3つ(8~10節)の前後半に分け、今回は前半の4つを学びたいと思います。
1 名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。2 弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。3 悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。4 賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に。5 賢者の叱責を聞くのは、愚者の賛美を聞くのにまさる。6 愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい。7 賢者さえも、虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失う。(7:1〜7、新共同訳)
6章の終わりの12節には、「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福(トーブ)とは何かを誰が知ろう」と書かれていましたが、これは7章を導き出すための修辞的技法でありましょう。「誰が知ろう」という反語的な問い掛けに、「トーブ シェーム ミッシェメーン トーブ / טוֹב שֵׁם מִשֶּׁמֶן טוֹב」(名声は香油にまさる)という韻を踏んだ美しい文で答える形で、7章は始まっているのです。香油という言葉は直訳では「良い油」ですが、名声は良い油よりも「より良い」と言っているわけです。
名声と訳されている言葉は、直訳ではただの「名前」ですが、香油=良い油にまさる「名前」なので、名声と訳されています。「名声」という漢字を見ますと、名前の声、つまり名前の発する声です。「○○さん」という名前を出しただけで、「ああ、あの人は立派な人だ」とか「あの人はこういうことをやってきた人だ」と思われること、それが名声です。その人間の名声は香油よりも良いとされているのです。新約聖書には、イエスの足に香油をかけた女性の話があります。これは、最上のものをイエスの足に振りかけたというお話です。その最上のものである香油よりも名声は「より良い」のです。
人間の名声がどれだけ良いものかということで、コヘレト書の第2部は始まるのです。この「名声は香油にまさる」という文は、1節後半の「死ぬ日は生まれる日にまさる」という文と一体です。生まれたときの名前(6章で見ましたように、胎内で神に付けられた名前と考えましょう)には、まだ香油にまさる誉れはないかもしれません。しかしそれが人生の歩みにおいてやがて誉れとなっていくのと同様に、人間が生まれた日にはまだ何も残すものはないのですが、最後の日にはその人の人生という歴史が残るのです。それは6章によるならば、母親の胎において全うされた命も同じです。つまり、1節で言っていることは、「人生にはかけがえのない価値がある」ということです。
2節には、「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる」とあります。2つ目の「より良い」です。酒宴というのは、婚宴のことを指すとされます。葬式の家に行くのは婚宴の家に行くよりも「より良い」ということです。通常、お葬式に行くよりは、結婚式に行く方が心晴れやかでありましょう。お葬式に行くときは、悲しみを伴わなければなりません。けれどもコヘレトは、葬式に行くのは結婚式に行くのにまさると言うのです。
少し前のことですが、私の牧会する教会の附属幼稚園に在園し、闘病していたS君が、8才で亡くなるという悲しい出来事がありました。S君のお葬式は、それは悲しいものでした。しかしそのお葬式に参席した人たちは、S君の9年に満たない生涯が、何物にも変えられないかけがえのないものであったことを考えさせられたと思います。9年に満たない生涯でしたが、Sという名をこの世に残したのです。ご遺族やS君に関かわった人たちの心の中から、S君の生涯が消え去ることはないことを、お葬式を通してあらためて知ったのでした。コヘレトは、そういった葬式に行くことの意義深さを、「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる」と言うのです。
S君が亡くなったのは、他の人に比べるとあまりにも早過ぎましたが、それでも、香油にまさる名声を人々の中に残した、亡くなった日は生まれた日にまさった、つまりその生涯は、かけがえのないものであったということです。「弔いの家に行く」(2節)ことによって、「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる」(1節)ことを知ることができたともいえるでしょう。
3つ目の「より良い」のある3~4節も、2節につながっていると考えられます。「悩みは笑いにまさる(より良い)。顔が曇るにつれて心は安らぐ。賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」。賢者の心は弔いの家にあると言います。弔いの家には悲しみがあります。しかし、そこでは故人を通しての、人生という教科書といいますか、それを学ぶことができます。逆に愚かな者の心は、宴会の席で興に乗っているようなところにあるということです。それは、その時は楽しいかもしれませんが、楽しい時であるというだけであって、そこで学ぶものは何もないのです。快楽の家での笑いよりも、弔いの家での悩み(「悲しみ」とも訳せる言葉です)の方が「より良い」と、コヘレトは言っています(3節)。
4つ目の「より良い」を語る5節を読みましょう。「賢者の叱責を聞くのは、愚者の賛美を聞くのにまさる(より良い)」。叱責とは教育を意味します。親が子どもを叱る、先生が教え子を叱るのは教育です。愚者の賛美とは、自己陶酔のおしゃべりを指すといわれます。そこには教育的価値はありません。6節の「鍋の下にはぜる柴の音」とは、そういった無価値な言葉のことを指します。それは「空しい」のです。ここで第2部である7章で初めて、「空しさ(ヘベル / הֶבֶל)」が出てきます。コヘレトは6章まででは、最初に「空しさ」を語り、その対極に「トーブ / טוֹב(良いこと、幸福、満足)」を見ていましたが、7章では、最初に「トーブ / טוֹב」が語られ、その対極として「ヘベル / הֶבֶל)」が語られています。
このように読んでまいりますと、第2部の始まりである7章は、「より良いことは何か」という書き方で始まり、1〜6節で「弔いの家・叱責」という「賢者」が、「酒宴の家・おしゃべり」という「愚者」にまさる(より良い)という話が展開されています。しかし7節では「賢者さえも、虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失う」と、「賢者」であっても「愚者」になることがあると書かれています。このことは、後半である7~12章において、さらにさまざまな形で展開されていきます。(続く)
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