私は今まで、「コヘレトが『太陽の下の空しさ』の外側に見ていることは3つあります」と書いてきました。コヘレト書の中でその根拠と考えているのは、9章7~9節です。そこには次のようにあります。
7 さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。
8 どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。
9 太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ。(9:7〜9、新共同訳)
私は、ここに箇条的に書かれていることが、コヘレトが「太陽の下の空しさ」の外側に見ている3つのことであると考えているのです。7節には「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい」とありますが、これは明らかに2章24~25節と3章12~13節で示された、コヘレトが大切にしている1番目のことです。そして9節には「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい」とありますが、妻と訳されている「イッシャー / אִשָּׁה」は「人」の女性形であり、ここは広義に「愛する人と共に楽しく暮らすが良い」と捉えてよいのではないかと思います。つまり、9節に示されていることは、4章で明らかになった「他者と共に生きる」という、コヘレトが大切にしていることの2番目のことなのです。
8節には「どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな」とあります。この所作は「神殿祭儀」における習慣です。神殿祭儀、それは礼拝のことです。私は、9章7~9節をコヘレトが大切にしていることの「まとめ」と見て、神殿祭儀をコヘレトが大切にしていることの3番目のこととして捉えています。
今回学ぶ4章17節~5章6節(新改訳は5章1~7節)には、まさにその神殿祭儀のことが記されています。それでは今回の学びをいたしましょう。この回は、原典と照らし合わせ、5章5節までをフランシスコ会訳、6節は聖書協会共同訳を用いたいと思います。
4:17 神の家に行くときは、自分の歩みに気をつけよ。そこに近づいて、聞き従うことは、愚かな者の犠牲(いけにえ)をささげることに勝る。彼らは悪を行っていることを知らないからである。5:1 神の前では、軽々しく口を開いてはいけない。心焦って言葉を出してはいけない。神は天におられ、あなたは地にいるからである。だから言葉を控えめにせよ。2 仕事が多いと夢を見る。口数が多いと愚かな言葉も出る。3 神に誓願を立てるときは、それを果たすのを遅らせてはいけない。神は愚かな者を喜ばれない。立てた誓願は果たせ。4 誓願を立てて果たさないくらいなら、むしろ立てないほうがましである。5 あなたの口が、あなたを罪に陥らせないようにせよ。そして、使者に、「あれは間違いでした」と言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を聞いて怒り、あなたの手の業を滅ぼしてよいだろうか。6 夢が多ければ、ますます空しくなり、言葉も多くなる。神を畏れよ。(4:17~5:5、フランシスコ会訳 5:6、聖書協会共同訳)
コヘレトは今回も「空しさ」ということを挙げて、その対極にある良いことを求めています。6節に「夢が多ければ、ますます空しくなり言葉も多くなる」と、その言葉があります。しかも原典を見てみますと、この「空しさ」は複数形なのです。複数形の「空しさ」は、コヘレト書全体でも4回しか出てきません。そのうちの3回はすでに第3回で取り上げました。その際私は、複数形の「空しさ」を「空(から)っ空(から)」と訳出しました。空しさの極地を示している言葉だと思うのです。今回6節にその言葉が出てくるのです。そして原典を見ますと、夢が多いことと言葉が多いことが空しさの極地という書かれ方をしています。
夢が多い、言葉が多いとは、神殿祭儀での会衆の誤った姿を言っています。そしてそれは「空しさの極地」なのです。コヘレトはそれを示して、そうではない神殿祭儀を心掛けよと説いています。
「神の家に行くときは、自分の歩みに気をつけよ」(4:17)と書き出されます。神の家とはエルサレムの神殿のことです。神殿に行くときは、そこでの祭儀を心して行いなさいということです。そこから今回の箇所までは神殿でのことを語っています。「神の前では、軽々しく口を開いてはいけない。心焦って言葉を出してはいけない。神は天におられ、あなたは地にいるからである。だから言葉を控えめにせよ」(5:1)。神の前で心焦って言葉を出すというのは、心の中の思いをまとめないで口に出すということです。「言葉を控えめにせよ」というのは、イエスが「あなたがたが祈るときは、くどくどと述べてはならない。言葉数が多ければ、聞き入れられるわけではない」と言われたのと同じです。
2節はその理由付けです。「仕事が多いと夢を見る。口数が多いと愚かな言葉も出る」。この場合、夢というのは、寝ているときに見る夢ではなく起きている時に抱く夢です。きちんと計画のある夢、ビジョンであればそれは良いものでしょう。けれども、何の計画もなしに抱く夢は、単なる幻想です。ここでコヘレトは幻想のことを指し、「仕事によるわずらいが多いと幻想を抱く」と言っているのです。幻想のような、心の中の思いをまとめない、意味のないことをくどくど祈るべきではない。そしておしゃべり人間のようにべらべら祈っても、愚か者のようでしかない、ということです。この1~2節の言葉と、イエスの言われた「祈る時にはくどくど祈るな」ということは、私たちにとって考えさせられることです。神に祈るときに、何を祈るか。それはとても大事なことです。
3節に誓願という言葉があります。誓いを立てて祈ることです。聖書の中でよく知られているのは、サムエル記に記されているサムエルの母ハンナの誓願です。ハンナは子どもが与えられなかったので、「はしために御心を留め、男の子をお授けください。もしお授けくださいますならその子の一生を主におささげします」という祈りをしました。そのような、誓いを伴う願いの祈りが誓願です。ここでコヘレトは「誓願の祈りをしたら必ずその誓いを果たせ」と言っています。もしも誓いが果たせないなら、誓願は立てない方がよいとしているのが4節です。
5節は罪の告白の祈りです。神殿においては祭司が神の使者とされ、祭司の前で罪の告白の祈りをしていたのです。「あなたの口が、あなたを罪に陥らせないようにせよ。そして、使者に、『あれは間違いでした』と言ってはならない」とあります。「あれは間違いでした」というのは、ミスでしたということです。罪の告白の時に、祭司に対して「あれは単なるミスでした」と言うなら、「神があなたの言葉を聞いて怒り、あなたの手の業を滅ぼす」ということです。そういった、真剣さのない罪の告白の祈りであってはならないということです。
まとまりのない祈りをしてはならない、果たそうとしない誓願の祈りをしてはならない、真剣さのない罪の告白の祈りをしてはならないというのです。そして、それらのことをまとめて、「幻想や多言による祈りは空しい」と言っているのです。そうではなくて「神を畏れよ」とコヘレトは言います。祈り、すなわち神殿祭儀の際に、神を畏れ真剣にそれをせよと言っているのです。それは空しさの対極の、空しくないことなのです。
「空しい、空しい」と言うコヘレトが説く、空しさの外側にあることは、
- 日々の食事を神からのプレゼントとして感謝していただくこと
- 助け合って共に生きること
- 神を畏れつつ神殿祭儀をすること
なのです。
前回、4章13節~5章8節は、4章17節~5章6節を囲い込む「インクルージオ(囲い込み)構造」になっていて、インクルージオの外側の部分は「王」について語られており、そこでは「王」という相対的な存在が記されていると申し上げました。しかし、今回学んだ囲い込まれた部分は、「天におられる神」(5:1)を畏れつつ神殿祭儀をせよというものであり、それは相対的なことではなく、また「太陽の下の空しさ」の外側にあることなのです。(続く)
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