4 人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。5 愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。6 片手を満たして、憩いを得るのは、両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。7 わたしは改めて、太陽の下に空しいことがあるのを見た。8 ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。11 更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。(4:4〜12、新共同訳)
「空しい、空しい」と繰り返すコヘレトが、その空しさの外側のこととして見ていることは3つあると、私は考えています。その第1のことは、「食べて飲むことを神様からのプレゼントとして受け取る」ということを今までお伝えしてきました。今回お伝えする箇所には、第2のことが記されています。しかしここでもコヘレトは、「空しい」と語り出します。「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」(4節)。ここでは競争主義のことを空しいと言っています。今日の私たちの社会と変わらぬものが、コヘレトの時代にもあったのでしょう。
では競争に勝った人はどうでしょうか。競争に勝った人をコヘレトは、「両手を満たした人」(6節)と表現します。日本語にも「両手に花」という言葉がありますが、それと似た言葉で、競争に勝って相当に利益を得たことを意味します。けれども、両手を満たして「オレはこれだけのものを得たぞ」というよりは、その半分だけ、つまり片手だけの利益にしておいて、憩いを得る方がよい、心に安らぎを得る方がよい、とコヘレトは言っています。「片手を満たして、憩いを得るのは、両手を満たして、なお労苦するよりも良い」。その後に「これまた風を追うようなことだ」という言葉があります。空しいということです。両手を満たすほどにさまざまなものを得ても、心に安らぎがなければ空しいと言っているのです。
次にもう一つの空しさが語られます。一人の男性が登場します。「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。『自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか』と思いもしない」(8節)。友も息子も兄弟もないといっても、この男性に身寄りがないと言っているのではなく、友も息子も兄弟も、自分には関係ない、どうでもよいということでしょう。富を満たすために友人や家族のことをかまいもせずに、競争主義を突っ走ってきた一人の男性。今日で言うならば、企業戦士という言葉がぴったりの男性です。コヘレトは、このようなことは空しいと言っています。
こうしてコヘレトは、競争主義は2つの意味で空しいと言っているのだと思います。1つは気持ちにゆとりが生まれないこと、そして2つ目には他者のことを考えないことです。しかしその後に一転して大変美しい言葉が書かれています。9節からですが、「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」。こう言ってコヘレトは、これらのことについては「空しい」とは言っていません。
コヘレトは1章の冒頭で、「すべては空しい」と語っていますが、その「すべて」は限定付きであると、第3回でお伝えさせていただきました。ここで言われていることは、その「限定付きのすべて」の外側にあることなのです。それが、コヘレトの説く、空しさの外側の、良いことの2番目のことであると思います。それは「他者と共に生きる」ということです。ここで言われている「ひとりよりもふたりが良い」とは、夫婦のこととも言われますが、必ずしも夫婦としなくてよいと思います。競争社会で蹴落とし合うのではなく、助け合うことを説いているのでしょう。
「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」。この言葉を読むと、イエス様が語られた善きサマリア人のたとえ話を思います。追いはぎに倒された男性を介抱し、宿に連れて行ったサマリア人。倒れても助け起こしてくれる人がいるならば何と心強いでしょう。「ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか」。これは兵士たちが寒さをしのぐために身を寄せ合うことであるようです。
「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」。ここで「ひとり」「ふたり」「三つよりの糸」となっているのは、1、2、3という数字の語呂を踏んでいると言われます。「三つよりの糸は切れにくい」というのは、日本で言うならば、戦国時代の武将・毛利元就(もうり・もとなり)が3人の子どもたちに伝えたといわれる「三本の矢は折れ難い」というお話のものと同じでしょう。1本の矢ならば簡単に折れるが、3本そろえば折るのは難しい。3人の兄弟が力を合わせて毛利家を守っていってくれと、元就が息子たちに伝えたものだといわれます。あるいは「三人寄れば文殊の知恵」という言葉もあります。3人がそろえば相当に強いものになるということはいえると思います。
コヘレトはこのようにして、競争社会において他者を蹴落としたり、自分一人で出世したりしていくのではなく、助け合って生きていくことの大切さを説いています。ここには空しいとか、風を追うようだという言葉はありません。コヘレトにとって助け合って生きることは、「すべては空しい」という「限定付きのすべて」の外側にある、空しくない、良いことなのです。
コヘレトが限定の外側に置いている良いことは3つあるのではないかと考えていると申し上げましたが、そのうち2つが出てきました。1つは3章までにあった「食べて飲むことを神様からのプレゼントとして受け取る」ということでしたが、2番目は「助け合って他者と共に生きる」ということだといえましょう。前回3章22節から、「神様からのプレゼントは、他者と共にふさわしい分として受け取る」とお伝えさせていただきましたが、これは第1のことと第2のことを結び合わせていると思います。
「他者と分かち合い、助け合って共に歩んでいくこと」。このテーマは11章でも展開されます。(続く)
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