6:3 人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だとわたしは言おう。4 その子は空しく生まれ、闇の中に去り、その名は闇に隠される。5 太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。6 たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。7 人の労苦はすべて口のためだが、それでも食欲は満たされない。8 賢者は愚者にまさる益を得ようか。人生の歩き方を知っていることが、貧しい人に何かの益となろうか。9 欲望が行きすぎるよりも、目の前に見えているものが良い。これまた空しく、風を追うようなことだ。10 これまでに存在したものは、すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。11 言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう。
12 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。(6:3〜12、新共同訳)
西村俊昭著『「コーヘレトの言葉」注解』によりますと、「ミドラシュの版に、7章は『第2部』の表題を持つ。9・6の後に『第2部は終わり』の註がある。9・7の前に『第3部』の表題が挿入されている」(357ページ)とあります。ミドラシュというのは、ユダヤ人による聖書解釈の一つのジャンルです。それによるならば、コヘレト書は以下のように区分けができるということでしょう(ただし、第1部、第3部の終わりは明言されていない)。
第1部:1章1節~
第2部:7章1節~9章6節
第3部:9章7節~
私はこの区分けに賛同します。なぜならば、7章1節と9章7節は明らかに新しく書き改められているように感じられるからです。そのように捉えますと、今回扱う箇所(6章12節まで)で、コヘレト書は第1部を閉じることになります。そのうちの6章3~11節は、一応のまとまりを持っているように思われます。そしてその内容は、今までコヘレトが語ってきたことを受けての「人生の貴さ」ということになると思います。
お伝えしてまいりましたように、コヘレトは、1)日々の食事を神からのプレゼントとして感謝していただくこと、2)他者と助け合って生きること、3)神を畏れつつ神殿祭儀(礼拝)をすること、の3つを大切にしています。これら3つのことは、ひっきょう「人生の貴さ」ということにつながっていくのです。またそれぞれの貴い人生は、永遠なる神から与えられたものです。永遠なる神に与えられた貴い人生であるが故に、日々の食事を分かち合って楽しくいただき、他者と助け合いながら、神を礼拝しつつ生きていくことが説かれているのです。今回学ぶ箇所では、その人生の貴さは、神からすべての人に等しく与えられていることが伝えられているのです。
今回、中心となるのは、10節後半から11節にかけての「自分より強いものを訴えることはできない。言葉が多ければ空しさも増すものだ。人間にとって、それが何になろう」です。ここでの「強いもの」とは、神を指します。人間は神を訴えることはできないというのです。ここを読みますと、5章1節にありました「神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ」という言葉との連結がなされます。またそこから、イエスの「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)という言葉を連想させます。コヘレトが「神の御業の絶対肯定」ということを考えていることが分かるのです。コヘレトは、神にものを申すのではなく、神のなされることを無条件に受け入れるという立ち位置にいるのです。
この言葉の直前を見ますと、「これまでに存在したものは、すべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている」(10節前半)とあります。神の御業を絶対肯定しつつ、そしてその神によってすべての人間が知られ、名前が付けられているというのです。そこではすべての人間に、何の差異もないのです。そのことを知った上で、もう一度3~6節を読んでみたいと思います。
3 人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だとわたしは言おう。4 その子は空しく生まれ、闇の中に去り、その名は闇に隠される。5 太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。
ここでは、長寿の人も母の胎で人生を全うした人も、「同じだ」と言っているのです。そして流産により闇の中に隠された人の名前であっても、「与えられている名前」(10節)なのです。私はここに、コヘレトの「生に対する畏敬」の究極なものを見ます。「どの人生も、神に知られている(10節)貴いもの」なのです。そしてその「畏敬されるべき生の根源的なもの」には、「労苦」(7節)も「賢さ」(8節)も「欲望」(9節)も、勝ることはないと言っているのです。このようにして「生の貴さ」を語って、コヘレト書の第1部は6章11節で事実上終了します。
12節の「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福(トーブ / טוֹב)とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」は、次の第2部である7章への橋渡しと見るべきだと思います。「人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」というのは、11節までに語られていた「生の貴さ」を再確認しているのです。「死後ではなく、今の生が大切なのだ」。これはコヘレト書の重要なキーワードです。しかし12節は、7章の序奏とも捉えられます。7章は「死をもって終わる人生は良い(トーブ / טוֹב)」という内容を、「名声は香油に勝る、死ぬ日は生まれる日に勝る」と、歌い出すように始まります。それを導き出す修辞的技法として「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福(トーブ / טוֹב)とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」と書かれているのです。
さて、これまで15回にわたりコヘレト書を学んでまいりましたが、12章あるこの書の折り返し点に着きました。いかがでしょうか。この書の「面白さ」を味わっていただけましたでしょうか。少しでもその味わいのお手伝いができているならば幸いです。コヘレト書は、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」「神はすべてを時宜にかなうように造られた」という聖句のある3章や、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」「神を畏れ、その戒めを守れ」という聖句のある12章が、一般的に好まれているようです。しかし私は、この後の7章が「面白さ」という観点で言えば一番ではないかと考えています。次回以降、その「面白さ」を味わっていきたいと思います。(続く)
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