青山学院前院長の梅津順一教授(同大総合文化政策学部)による最終講義が1月30日、同大青山キャンパス(東京都渋谷区)で行われた。講義が行われた教室には、在学生や卒業生、教職員ら多くの関係者が詰め掛け、梅津氏は「大学にキリスト教は必要か」をテーマに語った。
梅津氏は学生時代、国際基督教大学(ICU)で、マックス・ウェーバー研究の権威であり、内村鑑三の門下生の一人である大塚久雄氏の下で学んだ。その後、東京大学大学院で博士号(経済学)を取得。放送大学、青山学院女子短期大学、聖学院大学などで助教授、教授などを務めた後、2008年から現職を務めている。14年〜18年には青山学院の第14代院長を務め、その間に学部共通科目「青山学院大学の歴史」を担当したことなどから、最終講義で今回のテーマを選んだという。
「大学にキリスト教は必要か。必要であれば、どのような意味で必要か。この問いは、青山学院大学に所属する学生、教員であれば一度は頭をかすめた問いではないでしょうか」。冒頭にこう切り出した梅津氏は、初めに米国のメソジスト監督教会の宣教師が建てた3つの学校を母体とする青山学院の歴史、さらにその原型となる米国の「カレッジ」について触れた。
植民地期の米国に最初に建てられたカレッジは、ハーバード・カレッジ(現ハーバード大学)。その目的は、当時の植民地指導者たちが「ニューエルサレム」と呼んだ新世界の理想を継承するため、若者に高等教育を施し、牧師をはじめとする社会的指導層を育てることだった。そのため、こうしたカレッジにおける教育で「キリスト教は必要か」という疑問が生じる余地はなく、牧師や法律家、医師など専門職に従事する人々はすべて「クリスチャン・ジェントルマン」となる教育を受けるのが当然だった。米国では、こうした小規模のカレッジが拡大し、総合大学(ユニバーシティー)となっていく。
これに対して、日本の最初の大学である東京大学は、当初から総合大学の姿を取っていた。梅津氏によると、江戸幕府の研究・教育機関である儒教中心の昌平坂学問所と、わずかにあった洋学部門を継承し、明治新政府に設置された官僚養成学校を加えて発足したのが東京大学だった。梅津氏はこのうち、官僚養成学校が当時の東京大学の性格をよく表すものだとし、「日本の高等教育はその設立当初から、近代国家の建設に貢献する高度な専門家養成という特徴を持っていた。明治初期にあって、人間教育を基礎とし、その上に専門教育を行う余裕はなかったのです」と説明した。
その後、東京大学による専門家教育を補うために、東京専門学校(現・早稲田大学)や英吉利法律学校(現・中央大学)などが設立されていく。一方、福澤諭吉が設立した慶応義塾は米国のカレッジ教育に近いものがあったという。しかしそこには宗教教育やキリスト教は含まれていなかった。その上で、梅津氏は「それにキリスト教を加えたものが青山学院」と説明した。
では、青山学院にキリスト教があったことで、どのような教育ができたのか。梅津氏はそれを説明する上で、青山学院の卒業生3人を例に挙げた。
1人目は杉本(旧姓・稲垣)鉞子(えつこ)(1873〜1950)。浄土真宗の信仰のあつい土地柄に、旧長岡藩筆頭家老であった稲垣平助の娘として生まれた鉞子は、その出自から尼僧になるための教育を受けて育った。しかし時代は文明開化の世となり、渡米していた兄の勧めで、米国で商売をしていた兄の友人と結婚することになる。その準備として入学したのが、青山学院の前身である海岸女学校(後に東京英和女学校)だった。そこで大きなカルチャーショックを受けるとともに、やがてキリスト教を受け入れることになる鉞子は、その内面的な変化を次のように記している。
それは突然起こった変化ではありませんでした。・・・読書をしたり、考えたり、感じたりしていますうち、私の魂は未知の世界にのびてゆき、ゆるやかに、なめらかに、ほとんど意識しないうちに、哲理や神秘や諦めの信仰を離れて、自由と快活と希望の高い理想の世界にとけこんでいったのです。
鉞子はその後結婚し、二児をもうける。しかし、夫が病気で急死する悲劇に遭遇する。だがそれにも負けず、経済的な苦境を乗り越えるため寄稿用の英文エッセーを書き始め、それがベストセラー『武士の娘』を生むことになる。
「キリスト教は鉞子に『自由と快活と希望』を与えるものでした」「青山学院の女子教育は逆境にあっても、たくましく人生を切り開く女性を育んだのです」と梅津氏は指摘する。
次に梅津氏は、次第に戦争の色が濃くなりつつある昭和10年代に青山学院で学んだ永瀬隆(1918〜2011)を挙げた。英語教師を目指して文学部英語学科に入学した永瀬は、太平洋戦争開戦後、陸軍通訳としてタイに派遣される。そしてそこで「死の鉄道」と呼ばれるほどに多くの犠牲者を出した泰緬(たいめん)鉄道の建設現場で通訳として従事する。永瀬はスパイ取り締まりなどを行う特別高等警察に属したことから、欧米人捕虜らに対する壮絶な拷問現場に立ち会った。
戦後、連合軍による犠牲者の墓地捜索に通訳として同行した永瀬は、そこで鉄道建設の犠牲の大きさを目の当たりにする。そして一般海外渡航が可能になるとすぐに、慰霊の旅を始め、タイを100回以上訪問。和解のプロジェクトなども行った。
永瀬はクリスチャンではなかったが、聖書を引用することもあった。「(永瀬には)国籍を超えて、戦争の敵味方を超えて同じ人間であるという同胞感情があった。さらに、永瀬には青山学院で学んだ超越者の視点があった」と梅津氏。戦後、慰霊の旅を行った永瀬には「すべてをご覧になっている神がおられるという意識」があったとし、「青山学院で教育を受けた永瀬の活動は、戦後日本の平和への希求を確かに示すものでした」と語った。
そして最後に挙げたのが、イザヤ・ベンダサンの名で発表した『日本人とユダヤ人』や『「空気」の研究』などで知られる山本七平(1921〜1991)だ。永瀬の2年後輩である山本は太平洋戦争中、フィリピン・ルソン島に派遣され、極限的な経験をする。復員してからは聖書関係の出版社を経営し、その傍ら多彩な評論活動を展開。日本人が必ずしも自覚せずに身に付けた内面を「日本教」と名付けるなど、日本人に関する深い分析を行った。
こうした3人の例を挙げつつ、「大学にキリスト教は必要か。この問いには、青山学院の教育実践から生み出された優れた卒業生によって答えることができます」と梅津氏。しかしその一方で「キリスト教の旗を揚げた大学であれば、おのずからこうした人物が輩出されるとはいえません」とも指摘。大学でキリスト教が力強く語られているか、直面する問題に誠実に向き合っているか、思索が深められているか、を絶えず問い返し続けなければならないと訴えた。