宗教改革500年を記念した「聖書展」が青山学院大学で10月18日~11月1日に開催された。その関連記念レクチャーとして「聖書翻訳の歴史と新翻訳聖書」(主催:青山学院宗教センター)が10月28日、同大ガウチャー記念礼拝堂(東京都渋谷区)で催され、日本聖書協会の島先克臣(しまさき・かつおみ)氏の話に125人が耳を傾けた。
島先氏は立教大学文学部と聖書神学舎を卒業し、ゴードン・コンウェル神学校旧約修士課程、グロースターシャー大学ヘブライ語言語学博士課程修了。日本福音自由教会牧師、アジア神学大学院准教授を経て、現在は日本聖書協会翻訳部職員を務める。新しい翻訳聖書事業の中心人物の1人だ。
まず島先氏は次のような問題提起をした。
「正典を翻訳しないイスラム教と違い、なぜキリスト教は聖書を翻訳し、それを『神の言葉』とするのか」
個人的意見と断った上で、島先氏が挙げたその理由の1つ目は、「愛の神は、分かる言葉で救いを語るから」。島先氏自身が宣教地フィリピンで体験したことを踏まえ、「現地の人を救いに導こうと思ったら、その人が分かる言葉でなければ救いを伝えられない」と語り、次の聖書を引用した。
「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も話そうとは思いません。キリストは異邦人を従順へと導くため、言葉と行いを通して・・・働かれました。こうして私は・・・キリストの福音を満たして来ました」(ローマ15:18〜19、聖書協会共同訳)
「キリストはパウロを通して地中海世界で通じるギリシャ語で福音を語った。70人訳聖書以前から、愛の神は『翻訳してくださる神』だ」
第2に、「愛のゆえに、聖書を翻訳するから」。15〜18世紀は、1世紀で平均19言語にしか訳されなかったが、19〜20世紀には各言語への翻訳が爆発的に増えた。それは、リバイバル(信仰復興)運動があり、それに刺激を受けた世界宣教の熱心さがあったからだ。その中で世界中に聖書協会が設立されるとともに、世界各地の言葉に聖書が訳されていった。
「聖書の神は、愛の神であり、分かる言葉で救いを伝えられるよう、翻訳してくださる神。だから、神の民である私たちも、聖書を翻訳する。以上の理由から、『キリスト教は翻訳の宗教』と私は考えている」
島先氏は、30年間、闘病生活を送った女性から直接、このように感謝されたという。「ヘブライ語とギリシャ語だったら、私には聖書は理解できなかった。聖書協会が私の分かる日本語に訳してくれたから、私はイエス様に出会うことができた。イエス様がおられたから、私は生きてこられた」。このことは、自分の仕事に意味があることを深く再確認した出来事となったと島先氏は語る。
続いて、「新共同訳」の次世代の聖書となる、来年12月刊行予定の「聖書協会共同訳」について紹介した。
その特徴は、①典礼にふさわしい聖書(教会の礼拝で朗読できる聖書)、②プロテスタントとカトリックとの共同訳事業の継続、③日本語の変化や聖書学の発展への対応、④新訳ではあるが、過去の翻訳も大切にする、⑤本文に注が付けられる。
変更点としては、現在使われている日本語に対応する植物名にしたこと(薄荷→ミント、いのんど→ディル、ういきょう→クミンなど)、最新の自然科学を踏まえ、現地に生息していた動物名にしたこと(イナゴ→バッタ、マムシ→毒ヘビ、カモシカ→ガゼルなど)、「強い酒」と訳されていた言葉が実は「ビール」を指していたことから「(洗礼者ヨハネが)・・・ぶどう酒も麦の酒も飲まず」(ルカ1:15)とした。また、古代には発見されていなかった「酵母」を「パン種」に戻した。「お前」を「あなた」に、「はしため」を「仕え女」に、女性が含まれる場合は「兄弟」を「きょうだい」に変えたりするなど、差別的に捉えられないような配慮もしている。
こうした単語レベルの変更だけでなく、聖書解釈に関わることも改められ、旧約と新約のつながりがより明確になったという。
「現在、翻訳作業は基本的に終了し、最終調整に入っている。来年に入ると組み版、校正が始まり、12月に刊行される。日本の教会のため、救い主を広める同胞の働きのために用いられることを願っているので、共に祈りをもって支えてほしい」
その後、会場から、新しい翻訳聖書に対する質問や意見が活発に出された。「新共同訳は、分かりやすさを第1としているように思えたが、今回は原文に近付いた感じがする」といった感想が伝えられる一方、「聖書協会共同訳」という名称についての意見や小見出しへの注文なども出された。
「新共同訳を出した時は、カトリックとプロテスタントの共同聖書ということで新翻訳を出す意義があったと思うが、今回は改訂でもよかったのではないか」という意見には、島先氏が次のように答えた。
「各国でもほぼ30年周期に聖書翻訳を行っている。日本語の変化や学問の進展を考えれば翻訳は必要。また、『改訂』だと、翻訳者が自由に翻訳できなくなってしまうおそれがあり、今回あえて新しい翻訳として刊行することにした。翻訳者には『新共同訳に縛られなくてもいい』と伝えた。
ただし、『今ようやく新共同訳に慣れてきたのに、なぜまた新しい翻訳聖書を出すのか』という声もある。口語訳や新共同訳と読み比べていただけると、『新翻訳は確かにいい』と言っていただけると信じている」