「日本語で書き下ろす聖書注解シリーズ」と銘打った「VTJ旧約聖書注解」「NTJ新約聖書注解」(日本キリスト教団出版局)。その第1回配本『NTJ新約聖書注解 ガラテヤ書簡』(浅野淳博著)が、宗教改革500年を記念する10月に刊行されたのを記念し、第33回キリスト教文化講演会「わたしたちと聖書注解」(主催:教文館キリスト教書部、日本キリスト教団出版局)が10月14日、教文館ウェンライトホール(東京都中央区)で開催された。
「VTJ/NTJ」は次のような特徴がある。
①日本語での書き下ろしで読みやすい。
日本語で考える研究者が書き下ろすので、翻訳と違って分かりやすい。また、浅野淳博氏(ガラテヤ)や遠藤勝信氏(黙示録)など福音派からも参加しており、教派にとらわれない執筆陣となっている。
②原典の文書・文体・文法・語彙(ごい)の特徴が分かる。
③各書の歴史的・文化的・社会的背景が分かる。
④聖書が提起している問題を理解できる。
⑤現代社会への深い洞察を得られる。
伝統的理解から最新研究まで網羅され、釈義と黙想をバランスよく収録し、執筆者による原文からの翻訳があることも大きな特徴だ。
講演会では、青山学院大学教授の大島力氏と、日本基督教団代田教会主任牧師の平野克己氏によって、刊行の意義と同書の魅力について語り合われた。
まず大島氏が「新しい注解書が果たす役割」と題して講演を行った。大島氏はイザヤ書とホセア書の注解を担当するとともに、監修者として企画当初から携わってきた。「現在の聖書学の成果を十分に生かした注解書を作ろう。教会のとりわけ説教者の心に染み入るような注解にしたい」という思いでこの企画が始まったという。
500年前、ルターは「翻訳者」「聖書教授」「説教者」として活躍したが、その精神は今回の注解書にも通じていると語る。例えば、ルターが新約の翻訳に取り組んだとき、机に座っていただけでなく、「民衆の口の中をのぞきこんで」、つまり「誰にでも分かりやすい表現を探して訳した」と紹介。
また、ヴァルター・ベンヤミンの言葉を引いて、聖書翻訳の真の目的を明らかにした。「『翻訳の使命は、原典の意味になるべく近い言葉を提供することではなく、原典が起こそうとした事件を他の言語でも起こそうとすることである』。聖書での出来事が、他の言語でも起きる。それが究極の翻訳であり、ルターの翻訳はそれに近いことをした」
その上で、この新しい注解書刊行の意義を訴えた。
「説教者の注解書離れが進み、多くの注解書が同じようなものになっている今、それぞれの足りないところを兼ね備えているのがVTJ/NTJ。注解書は、聖書から飛躍させるジャンプ台(シャンツ)であると同時に、飛躍しすぎた時に聖書に引き戻す命綱(バンジー)。この両方を兼ね備えているのが良い注解書で、VTJ/NTJはそうなっている」
続いて平野氏も登壇し、「なぜ注解が必要なのか―教会の現場から」と題して対談が行われた。まず平野氏が、現在の説教が抱えている問題を指摘した。
「聖書は過去のことを現在の出来事として語るのではなく、今ここに出来事を起こそうとしているはずなのに、牧師の中にもそれを勘違いしている人がいる」
さらに平野氏が「信徒にとって注解書はどのような役割を持っているか」と質問し、大島氏が答えた。
「聖書学用語も出てくるので、読むのは大変だが、それぞれの著者が一貫したパッションを持って書いているので、その情熱の片りんを見つけさえすれば、『こういうことが言いたいんだな』と分かってくる。私は、祈り、黙想、そして試練が大切だと思っている。自分と、自分が生きている世界の試練を覚えながら聖書を読むと、ぐっと迫ってくるだろう」
平野氏も自身の説教者としての歩みを踏まえて次のように語った。
「御言葉をあちこちで試してみる。すると、この御言葉は本当だったと分かる。試練を受けるのは私たちだけでなく、御言葉も。『この言葉が本当に私の現実に通用するのか』というように。しかし、試練の中にあるほど、言葉が輝き出す。それは神の言葉だから。聖書の言葉は決してきれいごとではない。2千年以上、いろいろな時代の中で輝いてきた言葉であり、私たちがどんなひどい死にざまをしたにしても、決して失われない言葉。教会がどんなに小さくなっても、たとえ閉鎖しても、決して御言葉の輝きは消えることはない」
VTJ/NTJは全83巻(旧約聖書48巻、新約聖書35巻)を予定しており、11月には第2回配本『出エジプト記1~18章』(鈴木佳秀著)が刊行される。今後年4冊前後を刊行し、20年後の完結を目指す。