聖書翻訳の課題に直面し、聖書翻訳に当たる方々の計り知れない労苦を理解する慎み。大きな労苦の結果として生み出された日本語翻訳聖書を、1人の読み手としていかに読み続けるかの課題、さらに地域教会の一員として聖書の下に立ちつつ、説教を語り続ける喜びと苦悩。
こうした聖書翻訳をめぐる、自分のような者にも与えられている責任の自覚とそれへの応答を考えるとき、1人の方の存在を私は忘れることができません。榊原康夫先生が召された今もなお、先生に学んでおります。
榊原先生のお名前を最初に知ったのは、今から60年近く前、日本クリスチャン・カレッジ1年生の夏でした。先輩に勧められ、全バックナンバーを揃えた「リフォームド」誌に連載されていた、サムエル・ボイル先生の詩編講解。その翻訳者として、若き日の榊原先生が紹介されていたのです。詩編の味わいの喜びと一体となってお名前を記憶。
それなりの年月の経過後、榊原先生は、愛読した著作の著者であるばかりでなく、私が一番若い非常勤講師として働いた神学校の先任講師として共に働くようになったのです。そうです。30代のことです。
さらに、榊原先生との決定的な出会いは、40代で私が沖縄へ移って後です。沖縄にあるただ1つの改革派教会を訪問される教師方を同教会の村山雄一牧師が首里福音教会へ案内してくださる。そして、沖縄に流れる時間の豊かさの中で、会議や集会中心の本土での交わりでは経験しにくい人間存在の深みに達する交わり、それは沖縄での経験の忘れがたい恵みの1つです。
50代の日々を重ねているある年、榊原先生が村山先生に案内され、首里福音教会を訪問くださったのです。ゆっくりした時の流れの中で、榊原先生が私のような者の歩みをどのように見てこられたか、また、これからの歩みにどのように期待しておられるかを明確に、また簡潔にお話しくださったのです。私から榊原先生へだけでなく、榊原先生から私へ、それまで想像していない方向での交わりであり、文字通りの出会いでした。
この時の経験が、榊原先生にとっても忘れがたいものであった事実を、70代になり、沖縄から25年ぶりに関東へ帰ったのち知りました。榊原先生が、ご召天の前、最後に下さったはがきに、あの時のことを不自由な筆先でお書きくださいました。その筆跡から、先生のお心を深く読み取りました。
なぜ、こんな個人的なことを書き続けるか。それは、このような長年の交わりの中で、榊原先生の聖書翻訳に関わる1つの行動が、私にとっては当座理解困難であったのに、今はその意味が私なりに理解できるようになった。この経験の背景を確認するためです。
新共同訳が発行されたときです。私はほとんど関心を払いませんでした。新改訳の使用に専念しており、新共同訳に配慮する必要も余裕もない状態でした。
そのような中で、上記のような長年にわたる交わり、特にいのちのことば社から出版された7巻ものの『聖書注解』刊行の経過の中で、身近な存在であった榊原先生が、新共同訳に深い関心を払い、実際の検討を続けておられた姿と自分の在り方の差が次第に明らかになりました。
『コリント人への第一の手紙講解』(聖文舎)の「はじめに」の中で紹介している、榊原先生が用いた翻訳聖書のリストです。日本語翻訳聖書と共に一般信徒に入手しやすい代表的な英語訳聖書も紹介されています。私にとっては、圧倒的な数といえるものです。
これは、私にとって1つの大切なヒントとなりました。1つの訳を絶対化して他の訳を軽視したり無視したりしない。互いに注意深く比較し、特徴と課題を日本語の表現をも十分考慮しながら見ていく地味な歩み、これこそ説教への準備として大切との平凡な指針とその実践です。その後の私なりの実践「聖書の切れ味」は、本紙のフェイスブックで以前紹介した通りです。
今、私は、3つの点に意を注いでいます。
- この訳語や訳文は、絶対に認めてはならないものがあるかどうか。あるとすれば何か。
- この訳語や訳文は、他のものに比較して絶対に優れており、ぜひ紹介し提示すべきものがあるかどうか。あるとすれば何か。
- 1はそれぞれ大変な労力を払って営われている聖書翻訳においてはごく限られていると推察されます。また、2も他の訳語や訳文を押しのけて絶対的に提示する必要があるというのも、案外限られているのではないかと予測されます。つまり、大部分の場合はあれでもよい、これでもよい。どちらがより良いか、絶対的ではなく相対的な課題である。
この3点を互いに了解できるならば、1つの委員会訳を求め決定する道は、自ら開かれるのではないか。
この道を榊原先生は自覚し、実践していたのではないかと、今、考えるのです。
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