7月17日早朝、携帯に電話がありました。看護師である和泉糸子さんの次女からの「母が緊急入院しており、お祈りを願っています」とのメッセージでした。とても状態がよくないので、短くと強調されました。糸子さんのやっと聞き取れる願いに応えて、短く心を込め、確信を込めて祈りました。
糸子さんはその晩、主のもとに召され、7月19日、和泉ご夫妻が牧会した日本基督教団安孫子教会で葬儀が持たれました。
糸子さんに初めてお会いしたのは、1967年のことです。1963年から67年までの留学生活から戻った直後、埼玉県の寄居から東京西荻の古本屋「待晨堂(たいしんどう)」に行き、西荻の駅に向かい、踏切を渡るか渡らないかのところで、背後で「宮村さ~ん」と大きな声で呼ぶ声に振り向くと、背の高い和泉侃治(かんじ)兄が自転車を押しながら近づいてきました。「いつ帰ってきたの」との問いで始まる対話が始まったばかりだというのに、「結婚式の司式をしてくれない?」「ええっ」。
私が日本クリスチャンカレッジに入ったのは1958年、2年後に入学した侃治兄はとても体格のいい朗らかで元気な人でした。いつも「宮村さん、宮村さん」と言って親しく話し掛けてくれました。お互いに20歳前後の、極端なことを考えたりする時期ではありましたが、計算抜き、損得抜きに1人の人間と人間、気心が分かる、気が合う交わりでした。
ですから、大学紛争下の東京神学大学大学院2年を中退した侃治兄の突然の申し出に、何も背景を聞くことなく、結婚式の司式を引き受けました。4年間、留学中の私のため、祈り続けてくださった小さな教会の教会員も、宮村先生の友人の願いというだけで、皆さん一生懸命結婚式の準備をしてくださいました。かくして、私にとっては初めての結婚式の司式、教会にとっても初めての結婚式、そうです、結婚式の中心、それが花嫁・糸子さんでした。
和泉夫妻と私たち夫婦、それぞれの70年代を経過、私どもは1986年4月、沖縄へ移住しても、文通を中心とした交流が継続しました。
ところが2005年3月30日、和泉侃治先生が膵臓がんのため召されたのです。前年9月に手術のできない進行がんであることが分かりましたが、キリスト信仰による希望を持って生活を続け、新会堂建築が続けられる中で、礼拝使信(説教)を取り次ぎ続けました。侃治先生の召天後1年して、最期に語った使信が糸子さんの編集により、『ヨハネの手紙一による使信―喜びが満ちあふれる』(キリスト新聞社)として出版されました。
2008年6月1日、日本基督教団安孫子教会の主日礼拝で、テモテへの手紙二3章14~17節に基づき、「聖書はすべて」との主題で、私に宣教を担当する恵みの機会が与えられました。
さらに、午後の特別集会では、「和泉侃治牧師の説教集に対する喜びの応答」との題で、文字通り深い喜びに満たされて和泉侃治牧師の聖書の読み方、読み従いつつ生活する生き方、そして、死の迎え方を確認しました。それは、「宮村さん、宮村さん」「かんちゃん、かんちゃん」と呼び合った20代に、心の内に焼き付けられた聖書を通しての恵みとそれへの応答にほかなりません。
2011年、私どもが沖縄から関東へ戻って以来、安孫子教会の牧師である糸子先生や安孫子教会との交わりが深められ続けました。そうした中で、忘れがたい恵みの時があります。神田岩本町の病院で治療を受けた帰りの糸子先生が、クリスチャントゥデイの事務所に寄ってくださったのです。お孫さんを直接な読者と想定しながら、教会学校の現状の中でなお、将来を見つめて書き続けられた童話の出版について、相談を受けたのです。
私の応答は、単純であり、素朴です。その童話「星のかけら」をインターネット新聞クリスチャントゥデイに掲載していただき、今すぐにでも読者の手に手渡すことができないかとの提案です。その掲載を通して、読者からの応答と祈りを含めて、紙の本としての出版を実現するように祈り期待したい、と二段構えです。
この素朴な提案に、糸子先生は丁寧に答えてくださり、全17回の掲載がなされました。私にとって特別に意味深いのは、最後に書かれたあとがきです。この中には、インターネットを利用できない方々への配慮と、そうした制約を越えてなお、将来の子どもたちへの福音伝達の思いがにじみ出ていると理解します。糸子先生の思い出として、ご一緒に読んでいただければうれしいです。
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