はじめに
『新・景教のたどった道』の出版に向けて
このたび「新・景教のたどった道」を寄稿することとなりました。かつて2003年4月から1年間にわたりキリスト新聞社の同社新聞紙上に「景教のたどった道 東周りのキリスト教」を連載し、05年3月に同社から発売したものが絶版となり、購読を求められる声が絶えず、本書を発行することができるなら幸いと考えています。
専門的な景教資料の内容のものをイーグレープから『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(2014年)として発行しましたが、本書は一般入門書として活用していただけることを願っています。
さて、景教とはどのようなキリスト教でしょうか?世界や日本で広く知られているキリスト教は、ローマから発信して広がったローマ・カトリック教会、そこから16世紀前後に派生した宗教改革プロテスタント(抗議の意味)諸教会、英国から広がった聖公会、欧米から発展した福音主義諸教会やペンテコステ・カリスマ諸教会、さらにギリシャや東欧の東方正教会などがあります。
では景教、すなわち東方景教はというと、まさに「東方」と名が付いたように、イスラエルからシルクロードで東のシリアからイラク、ペルシャ(イラン)、中央アジアへと伝わり、そこを中継点として中国に布教した古代アジアのキリスト教です。
中国では唐の太宗皇帝の時代、ペルシャから635年に初代宣教師らが来たことから波斯(ペルシャ)教と言っていました。しかし、ペルシャからはゾロアスター教やマニ教なども来ていたので、独自の名前を用いることを考え、745年ごろに大秦景教と改名し、多くの宣教師や信徒らが中国に入り、全土で栄えました。781年に有名な「大秦景教流行中国碑」が西安に建ち、景教と中国皇帝との良好な関係を石に刻みました。
850年ごろには、堕落した仏教を皇帝が排撃する中で、外国人の宗教すべてを追放する政策に景教も含まれ、指導者や信徒らは殉教し、多くは中央アジアや福建省、モンゴル、北京近郊などへと生き延びていきました。850年ごろに景教碑は土に埋められ、約770年後の1625年ごろに発見されて景教の存在がクローズアップされました。
やがて中国の唐が滅び、13世紀ごろの元の時代になると、也里可温(エリカオン、福音の意味)と名前を変え、会堂を十字寺として信仰を守り続けていました。彼らの証しを墓石や石碑などの遺跡として各地で見ることができます。
筆者が景教研究の傍ら、幾つかの願いを主である神様に祈っていました。その一つが、景教碑を建立することでした。その祈りが応えられて2014年11月3日、日本景教研究会本部に大秦景教流行中国碑の模刻碑が建立されました。
中国西安の西安碑林博物館に置かれている原碑をそっくりに模して作成し、設置しました。西安碑と違う部分は、地震対策として四角い土台の御影石を造り、下の動物である龍の9番目の子ビシの後部がないことです。建立に当たっては多くの会員の献金と祈り、石材店社長の熱心さがあり、主である神様の導きがありました。
第二は、景教資料館の建設です。第三は、そのために景教関係の資料を収集することです。これらの実現に向けて景教の存在を具現化し、キリストの福音宣教の重要性を広めていきたいと願っています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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