最後の審判、天国や地獄があるというのは本当か。その根拠は?
この世では、個人の人生でも社会全体でも、善悪が必ずしも貫徹しているようには見えません。悪が罰されるとは限りませんし、正義がいつも通るとは限りません。善人がいつも賞揚されるわけでもありませんし、悪人がいつも非難されるわけでもありません。善悪への報いが大変曖昧になっています。それは本来、神が望まれるところではありません。
神は、愛の神であるとともに、いやそれ以上に、正義の神、公義の神です。正しくないことはそのままにはしません。いつかその状態を正す予定を立てておられます。善行が正しく評価され、悪行が懲らしめを受ける、要するに、善も悪もそれに相応しく報いる、そのような結末を計画しておられます。この世ですぐに、ということではありません。皆の人生が終わってからなのです。そして、これが公義の神のなさり方なのです。
日本の多くの人が毎週の時代劇“水戸黄門”をテレビで喜んで観ています。いつも同じパターンで、悪人・悪侍がうまく悪を遂げていますが、そこへ登場する黄門とそのお供衆がその悪人たちを懲らしめ、正しいお裁きをして、「めでたし、めでたし」となるわけです。実に単純なワン・パターンですが、しかし、その結末がないと、見ている視聴者をここまで喜ばすことはありません。正当な報い、正しいお裁きは、なくてならない神の大原則なのです。神は、それを聖書において、最後の審判として告げているのです。
天地創造以来、世界は時を刻み続け、時代を重ね続けていますが、いつまでも同じように続けるのではありません。初めがある以上、終わりもあるのです。ですから、いつか終わりの時があると計画しているのは何ら不思議なことではありません。会社がある期間を区切って決算をするようなものです。出資者は決算を求め、それを評価するのは当然です。神が、個人の人生にも、この世界の歩みにも、ある期間の終わりを設定し、決算と同様の評価をし、相応の報いを与える。これは当たり前のことだとは思いませんか。
もし、正しい決着・正当な報いがないなら、この世は実に不条理なところ、何とも腑に落ちないところ、まじめに生きるに値しないところといえます。もし、神のお裁きがないなら、人は、他人から顰蹙(ひんしゅく)を買わない程度に外面を装って、内面はどのようにでも生きればいい、いや見つからなければうまく悪事をし、不道徳なことをして生きればいいことになります。
また、別に罪の赦(ゆる)しを求める必要もなく、キリストが十字架にかかって死ぬ必要もなかったのです。神は、最後の審判があるからこそ、十字架上であがないの死を遂げさせ、罪の赦しの道を用意してくださったのです。最後の審判とその帰結である天国と地獄は必ずなければなりません。
これがあるという数式の証明や試験管での証明はありません。しかし大事なことは、「これがないという証明」もないということです。ですから、「ない」と信じて生きた後に、「あった」なら、その思い違いは取り返しがつきません。「ある」と信じて生きる方が絶対に賢明なのです。
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